現在、Twitterで「南京事件」で検索して最もいいねやRTが多いのは、安田峰俊氏のこのツイートではないだろうか。
実習生問題 →慰安婦問題も官民ごちゃごちゃしながら人権侵害的なことしてたんやろなあ
入管収容問題 →南京事件も現場の人が「職務に忠実」やったんやろなあ
と、日本の歴史問題が割と事実らしいことが体感的に判明してしまうので、当局は歴史の隠蔽のためには至急目前の問題を解決する必要がある
— 安田峰俊『さいはての中国』『八九六四』好評発売中 (@YSD0118) 2018年11月22日
一般的には「南京大虐殺」として覚えられているこの昭和12年の事件の10年前にも「南京事件」と呼ばれる事件が発生していたようである。
昭和が始まった頃の中国は「軍閥時代」と呼ばれ、アメリカ・イギリス・日本。ソ連を後ろ盾として各地方の軍閥(とは言っても私兵隊)が群雄割拠した状態だった。
そのような中で、汪兆銘率いる広東国民政府(国民党)が北へと勢力を広げ(北伐)、南京へ入場した時、事件は日本総領事館で発生した。
その時の様子を報じた昭和2年3月30日の大阪朝日新聞によれば、
日本領事館内に入ってみると館内の建物は目茶々々に破壊され、その混乱惨状は目も当てられぬほどである、その中を無数の無頼漢や兵士がなお盛んに器物を壊したり発砲して暴れ廻っておる、邦人避難民は荒畳を領事館の裏庭に敷いて難を避け、乳飲み児が火の出るように泣き叫ぶ傍に根本陸軍武官と木村警察署長とが全身血を浴びて打倒れている、それは予が嘗て見たことのない凄惨な場面で応急手当さえしていない、両氏の傷口からは泉の如く血が滾々として湧き出て来る、
(中略)
もしあの時直面した大暴行に対し一指だに抵抗を命じていたならば一台の機関銃と十人の兵士でどうしてあの雲霞の如き暴兵の来襲を防ぎ止め得よう、血をみて狂う暴徒等が直ちに在留一百余の邦人を一人残らず虐殺し尼港事件にまさる惨劇が演ぜられていることは想像し得るに十分である、同大尉が血気にはやる兵士を押し鎮め隠忍自重したればこそ遭難中惨殺も陵辱も受けた者がなかったのであって、かかる場合における同氏のとった処置は機宜に適したもので何等遺憾とするところなき賢計といわねばならぬ、
つまり、「その場でもし日本人が抵抗していたら、尼港事件(大正9年にニコライエフスク・ナ・アムーレで発生した赤軍による6,000名を超える大虐殺事件。日本人犠牲者も731人いたという)レベルの大虐殺となっていたであろう。その場は耐えるしかなったのだ」ということだったらしい。
かしその深謀遠慮は裏目に出た。数日後の4月3日には、漢口でやはり与しやすしと見た中国人暴徒に日本領事館が襲撃されている(漢口事件)。
このように、中国人に嘗め切られるほど穏便な対応をとっていたのが当時の日本であり、南京大虐殺の10年前だったようである。
とはいえ、政府レベルで言えば当時の中国は日本を含む列強からがんじがらめにされていたことに変わりはない。
一般庶民や軍の下のレベルで馬鹿にされていた状態であるとはいえ、日本軍が彼の地に駐留していたということには変わりはない。今でいえば沖縄の米軍のように。
このような情勢の中で、昭和2年7月9日の東京朝日新聞は、真ん中あたりの小さな囲み記事で「派遣軍を労わり給う 皇后宮の有難き思召 特に傷病者に対して義手義足等を御下賜の御さた」
という記事がある。
特に義肢の技術的にこれといったトピックのある記事ではないが、当時「義肢」というものが、「天皇(皇后・皇族)の思し召しで下賜されるもの」という認識があった、ということはこの当時の時代相として押さえておきたいところである。