平成も残すところあと少し・・・
洞口さんほんま草
コラボしてくれ〜
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— えらてんチャンネル@12/16著書発売10万部売る (@eraitencho) 2018年9月13日
今回「義手と義足の昭和史」は、「昭和史」とは言いつつ大正15年の記事から。
まあ大正15年イコール昭和元年なので、お許しいただきましょう・・・
ともあれ、大正も残すところ半年となった大正15年6月29日の読売新聞の記事より。
婦人欄で、「美事な義手で保母に復活」という記事がある。
名古屋出身で閑院宮寛子女王のお小間使いをしていた女性が、小田原の閑院宮別邸で関東大震災に遭い、寛子女王は死亡、この女性は命はとりとめたようではあるが、右手切断の羽目となってしまった。
時に震災はこの時から3年前の話である。
皇族のお世話をする身分となると、それなりに良い所の出のお嬢様だったのではないだろうか。
まして「天皇ハ神聖ニシテ犯スヘカラス」の時代である。
ともあれ、右手を切断した彼女は巣鴨の同潤会啓成社に収容され、障害者の更生教育を受ける。
ここの義肢義手製作課長が、彼女の「結婚はあきらめ自活する」という志にいたく感動、立派な義手を作ってやるということにしたのだという。
そして総務部長の計らいにより、保母養成所へ入ることとなったという。
記事中でも指摘されているが「子供の鼻ひとつかんでやるのにも、大小便の始末にも不便である」――― 一体どんな切断か(RBE? RAE?)、どんな義手だったのか(装飾義手? フック?)この記事からは読み取れないが、なにぶん大正時代のもの、そうそう機能性があったとも思えない。
彼女が保母になってその後、どのような仕事をしていったか、彼女に保母として育てられた子供達はどのような感慨を抱いたかということについては検索しきれなかったが、今や子供達すら100歳の坂に差し掛かろうとしている。
今やすべてが昔話となってしまった。
ところで、その隣の
日本にはまだ流行を作り出す人はありませんが欧米にはデザイナーと云って
服飾に 関するデザインばかりやっている人があってなかなかの勢力を持っている。
この当時の日本にはデザイナーという言葉自体なかったのだ。
そんな92年前の話。