にちだい、の、じけん

日大アメフト部の事件は、悪質タックルの本人が顔出しで会見するという異例の展開にまで発展。

そもそもの発端となった日大アメフト部の内田正人監督とはどういう人物なのか。
Wikipediaによれば、悪質タックルの選手とは日大豊山高校と日大の先輩であるという。
もう高校・大学の先輩のよしみなどありはしない(あったらあったで別の問題だけど)。試合に出たいという弱みに付け込んで鉄砲玉のような行為をやらせる。
生涯独身で部員と向き合い、日大をアメフトの強豪に育て上げた篠竹監督は泉下でどう思っているだろうか。
そしてまた、この内田監督は日大の職員を長年やり、現在では常務理事で人事担当までやっているという、かなりの実力者でもあるという。

御母堂様によれば「叱らないで育てた」という事であるが、日本一のマンモス大学・日大でナンバー2に上り詰めるとなると、相当な権謀術数には長じた人間であるという事であろう。

さて、日大で日大職員が起こした事件というと、天下で有名になった事件がある。
それは・・・

昭和25年(1950年)9月22日の昼下がり。

毎月22日は水道橋駅の近くの神田三崎町にある日大の本部からダットサンに乗って会計係の職員が靖国通り沿いの富士銀行と千代田銀行によって、職員の給料を引き出しに行くことになっていた。

小川町の交差点に差し掛かると、同じ日大の運転手である19歳の男が「体の調子が悪いので乗せてくれ」と言ってきた。
現金を運んでいるとはいえ同僚なら無碍にもできない。乗せていってやることにしたのが悪運の始まりだった。

神保町の交差点に差し掛かったとたんに19歳の男は豹変した。
ジャックナイフを運転手に顔に向け「左へ行け」という。
靖国通りを西に向かっている時に左へ曲がれということは、皇居や大手町の方へ行けという事。
同僚にナイフを向けられた状態の運転手は、言われるままにするしかなかった。

その後の経路は、読売新聞が詳しく報じているが、結局運転手は当時大手町にあった労働省の前で降ろされ、現金を運んだダットサンはどこかの路地を一回りしたうえで神田橋を通って大手町で乗り捨てて現金を持ち去ったものらしい。

「昭和毎日」の地図から記事に従って逃走経路を再現してみると、富士銀行と千代田銀行(後の三菱銀行。現在であれば三菱UFJ銀行)位置は現在でもほぼ同じであるとして、労働省の前で乗り捨てた、というのが分からない。
どこかの路地を一回転して神田橋方面に逃げたというのであれば、神保町交差点というよりは、駿河台下の交差点ではないだろうか。
つまり、ヴィクトリア(スポーツ店)や三省堂書店や書泉ブックマートの交差点を曲がって、現在気象庁や東京消防庁のあるあたりにあった労働省の前で(そうすれば労働省が左手にあたり、左側通行の車が同乗者を下ろすには好都合のはず)日大会計課職員2人を下ろし、中央気象台(現在はKKRホテル東京の位置)の周囲を回って日本橋川の北側を東進し、神田橋を渡って大手町に行った・・・ というのが自然のような気がする。

この強盗劇は19歳の日大雇いの運転手1人で行われたが、なにぶん「二世のような美青年」とのことで女関係が派手だったようで、捜査には女関係にも重点が置かれた。
今でいえば「DQN系リア充」といったところであろうか。レスリングやボクシングの心得があり、昭和23年にはどこだかのホールで絡んできた与太者を一発でノックアウトしたのが縁で付き合った彼女もいたのだという。
若い女はワルっぽい男に惹かれるものかね・・・

それにしたって、もうプライバシーも何もあったものではないという感じの記事である。(だったら拙ブログでも載せるなと)
実名はともかく住所を地番まで書く必要があるだろうか。

ほかの記事に目を移すと、山梨県鳳来村から東京見物にやってきた中学生35名のうち8名が食中毒になるという事件も発生している。
鳳来村は昭和30年7月1日、「昭和の大合併」で白州町となっているが、小淵沢までバスで行き、小淵沢からは中央本線で来ただろうか。

さて、靖国通りで起きた事件の方は、なにしろDQN系リア充の起こした事件なのでそんなに手の込んだものではない。
写真はさんざん新聞に出回ってるし「二世みたい」だの騒がれてるしで、東京の一般庶民の耳目の的だったであろう。

発見したのは大井町の下宿屋の奥さんであった、
「あの英語で鼻歌してる若いカップルの男、もしかして新聞で騒ぎになってる・・・?」

警察が駆けつけると有名なセリフ、
オウ、ミステーク、ミステーク!

結局、どのような逃走経路を経てこの大井町まで来たか。

9月22日
大手町で車を乗り捨てた後、流しのタクシーで品川まで。
品川から国電で有楽町に戻り、映画館で暇をつぶす。
銀座で下着などを買って、銀座7丁目の喫茶店で大学教授の娘のアプレ女と落ち合い、タクシーで目黒へ。
目黒の連れ込み旅館に投宿。

9月23日
自分たちが逃げていることは、女のことまで含めて大々的に報道されていることを知り、心中まで考えたが女の方に家を探しに行かせる。
午後は16時まで有楽町にいて、女とは20時に銀座のキャバレーで落ち合い、女が探してきた大井町の下宿へ向かう。

9月24日
さっそく下宿の奥さんにバレて御用。
そして「オウ、ミステーク!
(写真は「アサヒグラフ」昭和25年10月11日号。大森警察署にて)

さて、では今回の「事件現場を歩く」では、そのミステークの跡をたどってみたい。
決死モデルは、車を使った事件であり、中の中の人TRSメン随一のDQNでもあるチームWBラジエッタに御登場願うこととしたい。

まずは富士銀行の場から。
もちろん、富士銀行は現在みずほ銀行になっているが、背後のみずほ銀行神田支店は、かつては日本勧業銀行の店舗であったようで、宝くじ売り場も併設されている。
日本勧業銀行は昭和46年(1971年)に、都銀中位行となっていた第一銀行と合併し、「第一勧業銀行」となる。
これが富士銀行と合併してメガバンク「みずほ銀行」となるのは、平成14年(2002年)のこととなる。

富士銀行神田支店は、奥を東西に横切る靖国通りの向こうのビルのあたりにあったようである。
ちなみに、右の通りは南北に走る外堀通りとなる。

さて、富士銀行で現金を積んだ車は、19歳のDQN系リア充の同僚に呼び止められることになる。

その場所は小川町の交差点のあたりだというので、この辺りではないだろうか。

割と最近まで喫茶店があったように思うが、現在では「備後府中焼き」の店が建っている。
そういえば広島風お好み焼きを「広島焼き」と言うと、広島の人は起こるというが、府中の人はその辺りにはこだわらないのだろうか。
むしろ「備後府中」の名が広まることをうれしく思っている?
それとも、あくまで東京だから許されてるだけで、じもとではゆるされないとか?
ただ、この店は備後府中のアンテナショップも兼ねているようであるから、地元の息はおもいっきりかかっているはずではある。

その次の場は、千代田銀行小川町通支店である。
千代田銀行は、もともとは三菱銀行であった。
ところが戦後の財閥解体で、三菱財閥の銀行業は「千代田銀行」となる。
Occupied Japanの悲しさ、三菱ブランドを名乗ることは許されず、「三菱銀行」に戻るのはサンフランシスコ講和条約が発効し、独立して1年後の昭和28年のことになる。
そして先述みずほ銀行の誕生に先駆けること6年前の平成8年(1996年)、日本唯一の外換銀行であった東京銀行と合併し「東京三菱銀行」となり、メガバンクの道を歩むことになる。
その神田支店は、なかなか大規模な支店である。

そして会計課職員2名を切りつけた労働省前は、まさにここになると考えられる。

現在の気象庁のあるあたりで「降りろ!」と捨てられ、車は鋭角に右折して竹橋(毎日新聞社)方面に走り去っていったのではないだろうか。

このような「日大の事件」であったのだが、加害選手の勇気ある記者会見から1日経った23日夜、今度は「黒幕」であると思われる監督・コーチが何を思ったか記者会見を始めた。

こちらは責任逃れに終始するグダグダぶり・・・

組織で権力を握ってしまうと、逃げに入ってしまうらしい。
「ケガさせろと言ったつもりはない」おそらくはそんな言い訳をしてくるかとは思ったが、案の定であった。

さて、権勢を誇ったこの監督が、今後も日大の要職にあることができるかどうか。
今後の末路は以下ばかりになることか・・・

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