閖って、書けない?

「欅って、書けない?」と聞かれたところで、鉄ヲタならかなりの人数が掛けるのではないだろうか。

なぜなら黒部峡谷鉄道の終点が欅平けやきだいらだから。

それはともかく今日は3.11から6年が経過する。
今日もまたどこかへ行こうか・・・

ということであてどもなく常磐線に乗って北を目指す。
水戸まではグリーン車で悠々と行くが、その先は5両の付属編成かあるいはE501系で行くことになる。

そして平・・・ではなくいわきに到着。
決死モデル:チームWB小津麗

ここから竜田行きに乗り換える。
竜田行きもまたE531系の5両編成。

車内には結構な客が乗っている。
地元客と思しき客は余り乗っておらず、1日2本しかない竜田からの連絡バスに乗り換える客がほとんどであろう。

そして竜田に到着。
この駅の向こうの線路は錆びついている。

到着するホームは島式の3番線となり、駅舎に面した端式の1番線には板でブリッジが作られており、跨線橋を渡らなくてもいいようになっている。
決死モデル:チームPさくら

そんなことをするくらいであれば、最初から1番線に発着すればいいような気もするが・・・
配線上、1番線から上り線に折り返しできないとかそういうことだろうか。

そして竜田の駅前から代行バスに乗る。
バスは国鉄バスに似たようなカラーリングであるが、地元の貸し切りバス業者のようであった。

そして原ノ町に向けて出発する。

ここから先は立ち入り禁止区域となる。
瓦が剥げたままになっている農家、荒れ放題になっている農地、あの日のまま荒廃したパチンコ屋やコンビニ、「震災からの復興」からは程遠い現実が今なお広がっていた。
これが「原発さえなければ」という風景である。

そして原ノ町に到着。
少し前まで「原町市」と呼んでいたが、現在は「南相馬市」となっている。
決死モデル:チームRナオミ

有名な相馬野馬追い祭は、相馬市ではなくこの南相馬市で行われる。

ところで、この原ノ町駅は、新幹線開業前の仙台駅のような良い感じの木造駅舎であるが、現在はリニューアルが図られている。
2015年の末に来た時は、浜吉田~相馬が津波の影響で孤立した区間となっており、原ノ町~相馬は孤立した区間として701系が往復しているだけだった。
しかし現在は、こちらの区間は開業しており仙台まで直通することができる。

さて、ここからはその仙台行きに乗ることにする。
車両は仙台カラーのE721系。

津波で流されて復興した区間は、高架となっている。
相当な税金がこの区間に費やされたのではないだろうか。
常磐線全通の暁には、東京~東北を結ぶ平坦なルートとして貨物には尊重されようが、現在の所は単なる仙台と福島県浜通り北部を結ぶローカル線である。

幹線と言って思い出したが、常磐線北部には、仙台~相馬・いわきの速達輸送の需要は無いのだろうか。
バスであれば、JRバス東北と新常磐交通の共同運行で1日7往復しているようであるが、ここで仙台~浜通りの需要を喚起できないものかと考えてしまうのだが。

さて、今回の目的地は、東日本大震災で甚大の被害を受けた仙台郊外の名取市閖上ゆりあげ地区である。
大震災直後に発売された週刊朝日の表紙を飾り、世界的に有名になった裸足の女性を覚えているだろうか。
この写真こそ、閖上ゆりあげで撮られた写真なのである。
難読地名であった閖上ゆりあげの名は、この震災で一躍有名になってしまった。

兎も角も仙台行きのE721系は岩沼で東北本線と合流し、名取に到着。

この名取で仙台空港鉄道と分岐している。
決死モデル:チームPみく

名取駅は、現在でこそ橋上駅であるが、かつては東側(海側)に駅舎があったのだろう。1番線は単式ホームで、2~3番線が島式ホームになった典型的な国鉄型の駅である。
現在は1番線が東北本線上り(福島・原ノ町方面)、3番線が東北本線下り(仙台方面)、そして真ん中の2番線が仙台空港鉄道との直通で、東北本線の線路の間から高架で仙台空港方面に分岐するようになっており、東北本線の上下路線に干渉しないで済ませることができる構造になっている。

仙台空港鉄道で仙台空港まで行くわけではなく、杜せきのしたという駅で降りる。

この駅の前には、イオンモール名取という巨大なショッピングモールがあり、降りる客も多い。

閖上地区に最も直線距離で近いのは、この杜せきのした駅となる。
ただし、この駅から閖上にバスが走っているわけではない。
タクシーで大枚はたいて行く他はない。

ということで、タクシーで閖上を目指すことに。
駅周辺は、嵩上げ工事が進んでいるが建物はほとんどない。仙台からかなり近いにも関わらずである。

そして閖上に到着。

「閖上」と大書した人工的な丘がある。
この丘は「日和山」というのだそうで、震災とは関係なく大正9年(1920年)に、在郷軍人によって計画されて築造されたのだそうな。
1920年と言えば関東大震災の年である。

震災の時は、この山頂の更に上まで津波が来たのだという。
それで、山の上の神社は流されてしまったというが、現在は再建されているようであった。
今日は3.11ということで、かつてここに住んでいた人達が戻ってきているようであった。

そして運命の14時46分が来ようとしていた。

人々が広場に集まる。
テレビカメラも集まる。

式典が厳かに始まり、当時中学生だった御子息を亡くしたお母さんのメッセージが読まれる。

人口7万8千になる仙台市のベッドタウン・名取市でも東日本大震災で1000名以上の死者が出た。
14時46分、黙祷。

式典が終わり、名取駅行きのコミュニティバスに乗ることにしたいが、閖上小中学校前の発車が15時15分。
ここから歩くにはかなり微妙な距離である。
もしかして間に合わない・・・?

そう思っていたら、どうにか間に合うことができた。
バス停のあった商店と思しき建物も、廃墟のようになっていた。

周囲は嵩上げが進んでおり、道路も立体交差のようになってしまっている。

震災の爪痕の残る閖上など海側の地区から、だんだん家並みが増えて行って名取の市内に入る。
そして名取駅に到着。
結局、このバスの客は自分1人だけだった。
決死モデル:チームWBラジエッタ

あとはどうやって帰ろうかと考えたが、もう疲れたので新幹線で一っ飛びに戻ることにする。

そんな6年目の3.11だった。

 

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