一時期、自分もツイッターのプロフィールに使っていた、
「ミロのヴィーナスを眺めながら、彼女がこんなにも魅惑的であるためには、両腕を失っていなければならなかったのだと、ぼくはふとふしぎな思いにとらわれたことがある」
というあの文章を、今更ながらやっと全文読むことにしました。
いつでも読めると思っていると、却って読まないものである。
その秘密の扉を、今開ける時が来たのだ・・・!
裏表紙を見るだけでもゾクゾクするではないか。
曰く、
ミロのヴィーナスがあのように魅惑的なのは、彼女が、その両腕を故郷であるギリシアの海か陸のどこか、いわば生ぐさい秘密の場所にうまく忘れてきたからだ。
絵画・映像・音楽その他のあらゆる“手”の変幻を捉え、美や真実の思いがけない秘密の瞬間を析出した、清岡卓行の鮮やかな詩的想像力。エッセイ文学の名品。
ここまで物事の本質をついた文章を仰々しくも「評価」する何物をも、自分は持ち合わせていない。
ただただその文章に酔いしれるだけである。
いっそ、その全文を掲載し、感動を分かち合いたいと思っている程である。
・・・と、それはいいのだが、そんなことをしたら著作権的に大丈夫であろうか。
確か公表後30年だか50年だった気が・・・
念のため調べてみたい。
曰く、
著作権は、著作者が死亡してから50年を経過するまでの間、存続する(51条2項)。より正確には、死亡してから50年を経過した年の12月31日まで存続する(著作権法第57条第1項。著作権の保護期間#保護期間の計算方法(暦年主義))。ベルヌ条約7条(1)に対応する規定である。
あれ?「公表後50年」じゃないのね?
公表後50年はこっちだった。
無名または変名の著作物
無名または変名の著作物の著作権は、その著作物の公表後50年を経過するまでの間、存続する(52条1項本文)。無名または変名の著作物では著作者の死亡時点を客観的に把握することが困難であるから、ベルヌ条約7条(4)が容認する公表時起算を適用した。
団体名義の著作物
法人その他団体が著作の名義を持っている著作物の著作権は、その著作物の公表後50年(著作物の創作後50年以内に公表されなかったときは創作後50年)を経過するまでの間、存続する(53条1項)。団体名義の著作物においては、著作者の死亡を認定できないため、公表時起算を例外的に適用した。
写真の著作物
現行著作権法では、写真の著作物の保護期間を他の著作物を区別して特別に定める規定は存在しない。したがって、一般の著作物と同様に、写真の著作物の保護期間は死亡時起算の原則により決定される(51条2項)。
写真の著作物の保護期間は、1899年7月15日に施行された旧著作権法では、発行後10年(その期間発行されなかった場合は製作後10年)と規定されていた。その後は、以下のような変遷をたどっている。
- 1967年7月27日 – 発行後12年(未発行の場合は製作後12年)に延長(昭和42年法律第87号、暫定延長措置)
- 1969年12月8日 – 発行後13年(未発行の場合は製作後13年)に延長(昭和44年法律第82号、暫定延長措置)
- 1971年1月1日 – 公表後50年に延長(著作権法全面改正)
- 1997年3月25日 – 著作者の死後50年に変更(WIPO著作権条約への対応)
上記によれば、1956年(昭和31年)12月31日までに発行された写真の著作物の著作権は1966年(昭和41年)12月31日までに消滅し、翌年7月27日の暫定延長措置の適用を受けられなかったことから、著作権は消滅している。また、1946年(昭和21年)12月31日までに製作された写真についても、未発行であれば1956年12月31日までに著作権は消滅するし、その日までに発行されたとしても、遅くとも1966年12月31日までには著作権は消滅するので、1967年7月27日の暫定延長措置の適用は受けられない。したがって、著作権は消滅している。いずれの場合も、著作者が生存していても同様である。
このように、写真の著作物は他の著作物と比べて短い保護期間しか与えられてこなかったため、保護の均衡を失するとして、日本写真著作権協会などは消滅した著作権の復活措置を政府に対して要望していた。しかし、既に消滅した著作権を復活させることは法的安定性を害し、著作物の利用者との関係で混乱を招くなどの理由から、平成11年度の著作権審議会は、復活措置を見送る答申を行っている。
ともかくもだな、「手の変幻」の著作権が切れるのは、清岡卓行先生の亡くなられた2006年から50年後の2056年12月31日ということになる。
では「引用」に留めておきましょう。
文化庁によれば、適切な「引用」と認められるためには、以下の要件が必要とされる。
- ア 既に公表されている著作物であること
- イ 「公正な慣行」に合致すること
- ウ 報道,批評,研究などの引用の目的上「正当な範囲内」であること
- エ 引用部分とそれ以外の部分の「主従関係」が明確であること
- オ カギ括弧などにより「引用部分」が明確になっていること
- カ 引用を行う「必然性」があること
- キ 「出所の明示」が必要(コピー以外はその慣行があるとき)
・・・では、「引用」で行ってみましょう!
ミロのヴィーナスを眺めながら、彼女がこんなにも魅惑的であるためには、両腕を失っていなければならなかったのだと、ぼくはふとふしぎな思いにとらわれたことがある。
もはや有名ともなった一文・・・ というか、高校の教科書に載っているので有名のようですけどね。
そのとき彼女は、その両腕を、故郷であるギリシアの海か陸のどこか、いわば生ぐさい秘密の場所にうまく忘れてきたのであった。いや、もっと適確に言うならば、彼女はその両腕を、自分の美しさのために、無意識的に隠してきだのであった。
そうだそうだ!うまく忘れただけなのだ!
美しさのために無意識的に両腕を隠したのだ!
失われた両腕はある捉えがたい神秘的な雰囲気、いわば生命の多様な可能性の夢を深深とたたえている。つまり、そこでは、大理石でできた二本の美しい腕が失われたかわりに、存在すべき無数の美しい腕への暗示という、ふしぎに心象的な表現が思いがけなくもたらされたのである。
東映やヤクルトで活躍した大杉勝男も引退の時言いました。
「最後に、わがまま気ままなお願いですが、あと1本と迫っておりました両リーグ200号本塁打、この1本をファンの皆様の夢の中で打たして頂きますれば、これにすぐる喜びはございません」
いいではないですか。存在すべき無数の腕!存在すべき無数の本塁打!
そこに具体的な二本の腕が復活することを、ひそかに怖れるにちがいない。たとえ、それがどんなに美事な二本の腕であるとしても。
したがって、ぼくにとっては、ミロのヴィーナスの失われた両腕の復元案というものが、すべて興ざめたもの、滑稽でグロテスクなものに思われてしかたがない。
そうだそうだ!腕の復活なんてグロテスクで滑稽だ!
失われているものが、両腕以外のなにものかであってはならないということである。両腕でなく他の肉体の部分が失われていたとしたら、ぼくがここで述べている感動は、おそらく生じなかったにちがいない。
そう、腕だからよかったんです!
そして最後にはこう〆ている。
美術品であるという運命をになったミロのヴィーナスの失われた両腕は、ふしぎなアイロニーを呈示するのだ。ほかならぬその欠落によって、逆に、可能なあらゆる手への夢を奏でるのである。
いやあもう素晴らしいとしか言いようがない。
清岡先生あなたこそは詩人である。 the詩人!
ミロのヴィーナスは両腕が無いから美しいのです!!!!