7月4日は以下のような記念日や出来事がある日です:
1. アメリカ独立記念日 (Independence Day) – アメリカ合衆国が1776年に独立宣言を採択した日。
2. ナショナルバーベキューデー – アメリカでは独立記念日にバーベキューをするのが一般的です。
3. フィリピン・アメリカ友好の日 – フィリピンで1946年にアメリカからの独立を祝う日。
4. トンガの国王の日 (King’s Official Birthday in Tonga) – トンガで国王の公式誕生日を祝う日。
5. ブーンフリッヒ祭 (Bonfire Night) in Northern Ireland – 北アイルランドでの伝統的な祭り。
また、歴史的な出来事としては:
1. 1776年 – アメリカ独立宣言が採択される。
2. 1802年 – アメリカのウェストポイント陸軍士官学校が設立される。
3. 1826年 – アメリカの2人の元大統領、ジョン・アダムズとトーマス・ジェファーソンがこの日に死去。
4. 1863年 – 南北戦争のゲティスバーグの戦いが終結。
5. 1884年 – 自由の女神像の贈呈がフランスからアメリカへ行われる。
6. 1954年 – BBCが最初のテレビ天気予報を放送。
7. 1976年 – アメリカで自由の女神像の100周年記念が行われる。
これらの記念日や出来事が7月4日に関連しています。
収鋲界でも「大元帥陛下」レベルの到達難易度である沖ノ鳥島ツアーは、14時に集合であるという。
ただ、出庫は15時半であると言うので、14時きっかりに行って行かなければいけないってことは多分ないと思うのだが、一応14時に間に合うように行くことにする。
生協では既に荷物の搬入が始まっていた。
船客待合所にはたくさんの人でごった返していた。
しかし、受付はまだであると言う。
そのうち、村長の挨拶が始まった。
「このツアーを村民限定にしたのは、船内で話があると思うが、小笠原村の広さを知って欲しいからだ」と言う。
それに引き続いて、スタッフ紹介。
その次に、注意事項。
たった2000人の島で200人近くが行くわけで、知ってる人もちらほらいる。
手話サークルの人も何人か行くようだ。
そのうちに、受付が始まる。
今回のベッドは特2等寝台となる。
特2等は、予め布団が敷いてありテレビもある。
乗船すると、なんと手話サークルの人もスタッフとして乗っていた。
うがいと鼻うがい忘れた…やはり何か忘れるのだ。
こうなったら、出来る限りのことをするしかない。
できることといえば、徹頭徹尾緑茶を飲み続ける位だろうか。
果たして15時30分、おがさわら丸は二見港を出港する。
お見送りの人もほとんどおらず、見送り船も全くない。
明日の沖ノ鳥島はどのようなルートをたどるのだろうか。
聞いてみると、左回りで2周するのだという。
ということは、そういう前提で決死のポイントも考えていかなければいけない。
7階のラウンジはかなりガラガラである。
200人弱とは聞いていたが、こんなもんだろうか。
それでは、読書の時間とすることにしよう。
この沖鳥ツアーのために、7冊もKindleで本を購入してダウンロードしたのだ。
まずは「二十歳の原点ノート」から。高野悦子が中学生の頃の日記だ。
巻次としては「第3巻」にあたるが、時系列としてはこれが1番最初なのだ。
最初は昭和38年。西那須野中学校2年生の時から始まる。身長150センチで体重38キロだったと言い、この当時の女子中学生の体格からしても小さい方だったようだ。
中学生の日記だけに、時事的な内容はなく、あくまで自分の身の回りのことばかりだ。
また「お年玉」だの「宿題」だの、中学生なんてそんなもんだろう。
ちなみに、高野悦子は後宇都宮女子高校から立命館大学に進んでいるので、「烏山」「塩原」なんて言う地名も出てくる。
と、船内放送が鳴る。
硫黄島の沖合は、夜の10時ごろに通過するのだという。
で、「二十歳の原点ノート」なのだが、誰々ちゃんと一緒に勉強すると、他の誰々ちゃんが私が取ったみたいに思われるなど、女の子のグループらしい友人関係の悩みも垣間見える。
しかしだ。こうやって日記帳がベストセラーになってしまったという事は、この日記に仲が良いだの悪いだのと出ている誰々ちゃんと誰々ちゃんと誰々ちゃんはどんな気持ちだろうか。
そんなことが気になってしまう。
ともあれ、基本的には酔っ払いの先生なんて見たくないとか、学校を良くしたいとか、真面目な女子中学生ではあったようだ。
この当時、身体の障害がどのように見られていたかと言う記述も興味深い。
「ラテン語学生」に出てくる女性が、半身不随の夫と愛情で結ばれていると言うことに対して「神聖な愛」と形容している。全くもって単純極まりないお涙頂戴の図式。
また、「女学生の友」の昭和38年11月号には、「シオンの花影」という小説があったのだそうで、「君は足がびっこであるために、君の心も卑屈になってしまったらおしまいだ」などという言葉が出たのだという。
こんなの、令和の今なら教育テレビのバリバラでネタにされてるだろう。
また、西那須野だけに、進路は宇都宮女子高校に足りなければ、大田原女子高校という選択肢があったようだ。
ところで踊るミエさんは黒磯出身なわけだが、進学校を出たと言うので、大田原女子高校になるのだろうか。
目の前では、カツオドリが船に並行して飛んでいる。
昭和38年11月24日の日記には、アメリカのケネディ大統領の暗殺に関して出てくる。
「先進国アメリカで暗殺が起こるなんて」という感想。
そういえば、安倍晋三が暗殺された時も、ベトナム人の友人から「日本でこんな暗殺が起きるとは思っていませんでした」と言われたものだ。
また、舟木一夫の「高校三年生」もこの時代だったようだ。
個人的には、宇都宮女子高校を受験して、合格を待っている間、そして合格を勝ち取った時、初めての高校生活はどんなだったかあたりを見てみたかったのだが、昭和39年は3月7日の次が5月29日になってしまっている。
と思ったら、7月31日の日記にその辺のことが書いていた。
西那須野からの受験者はたった1人のようだったが、やはりかなり緊張したようであった。誰にとっても、受験とは人生の大きなイベントであるはずだ。
そして、宇都宮女子高校ではバスケットボール部だったようだ。
相変わらず内省的な真面目な女子高生だったようだ。
そんなバスケットボール少女・高野悦子の通学は6時37分の電車で西那須野を出る生活だったという。
帰り道は鶴田発18時48分、宇都宮発19時13分の黒磯行き、西那須野到着は20時05分。
宇都宮から黒磯は昭和34年に運行開始した湘南電車であっただろう。
往復3時間の通学は体力的にきつかったようで、「宇女高の近くに下宿をすることができれば」などと言っている。
そして結局高校2年の時、昭和40年6月から下宿生活を始めたようだ。
そしてバスケットボールに打ち込んでいたようであるが、夏休みでそのバスケットボールをやめるかどうか思い悩んだあげく、9月には選手からマネージャーとなったようだ。
そのうち18時が近づいたので、夕食にしたい。
キャベツが4分の1個余っていたので、それを持ってきたのだ。
だから、一緒に非常食のわかめご飯・キャベツ・ツナ缶も持ってきた。
そこで重大な忘れ物に気づいた。
それは、キャベツにつける調味料を一切持ってこなかったのだ。ここで買うことにしようか。
とは言え、6階の売店には小笠原の塩や島ラー油しかない。島ラー油を1100円で買うにしても、今度は皿がないのだ。
仕方がないので、カレースープに付けて食べることにした。
どうにかフードロスを防ぐことができた。
既に日は暮れようとしている。ここで決死することとしたい。
なるべく左舷側が広く映るよう、明日の予行練習も兼ねて。
また、どの位置で撮ったのか、exif情報が盛り込まれるまで撮ることにする。
ところで、iPadに抜け毛が落ちている。
これはこれまでに比べて多いのか普段通りなのか。
そんなに気になるんだったら、銀座クリニックにでも相談しようか。
兎も角も引き続き、「二十歳の原点ノート」を読み進むことにする。
高校2年生の秋には、京都に修学旅行に行ったようだ。やはりそこまでの途中の列車の中でも、友人関係がどうたらとかそんなことで悩んでいたようだ。「一日中列車の旅」だったようで、それが前の年に開業した新幹線だったかどうかは定かではない。
また、京都に行き「このようなところで勉強したい」と思ったことも、立命館大学に進む同期となったようだ。
また歌声喫茶に行かなかったことを後悔していたようだった。歌声喫茶なんてのもまた時代である。
であるが、結局高校2年生の11月にバスケットボールのマネージャーも辞めてしまう。ここから受験モードに入っていくようだ。
また、年頃らしく「ボーイフレンドが欲しい」などという思いもあったようだ。
それに、キリスト教会に行って、唯物論だの哲学だのといったことを考えたりもしている。
令和のJKでは、なかなか考えられないような気もするが、今の宇都宮女子高の生徒も、こんな考えを持ったりするだろうか。
そしてまた、驚くほどたくさんの読書をしているのだ。
平成や令和の高校生や大学生だったら、そんなことより飲んだり遊んだりして「コミュニケーション能力」とやらを磨くのが最優先なのだろう。少なくともたくさん本を読んだことが自慢になりはしない。むしろ「コミュニケーション能力のない行為」とすら映るだろう。
今の時代のこうしたコミュニケーション真理教な反知性主義もまた、昭和40年代に学生運動が盛んだったのと同じように1つのトレンドとして過ぎ去っていくのだろうか。
そして高校3年の11月、日本史に対しての興味というところから、立命館大学を第一志望としたようだ。
歴史学という事は文学部になるが、それが就職に不利であるということも自覚していたようで、だからといって男性に伍して働けるかといえば、そんなファイトもないということも自覚していたようだ。
既に日は暮れて暗くなっている。そこへ船内放送が鳴った。
雲が多いため、20時から予定していた星空観察会は中止になると。
あんなに太陽が照っていたのに、いざ星空観察会をしようと思ったら雲が出てくるとはまた皮肉なことである。
そしてまた「二十歳の原点ノート」に戻ると、どんな職業を目指していたかと言うと、通訳やジャーナリストだったようだ。
そして、この本はここで終わっている。
その次は、「二十歳の原点序章」となる。
おそらくは、ここで初めて「自殺」という言葉が出てくる。
生きていることから逃避したくなる、苦しまずに死にたいなどと言っている。
果たして受験はというと、立命館・立教・国学院・明治を受験してすべてに合格し、立命館に入学手続きをすることになったようだ。
立命館大学の学生になると、「ベトナム戦争」「全学連」などというワードが出てくる。
その立命館大学には、京都市電で通っていたようだが、その当時は「急行」などというのもあったようだ。
そしてメーデーにも参加するのだが、その当時の眼目は「ベトナム人民を支援しよう「閉じる「沖縄・小笠原を返せ」「日米安保を破棄しろ」というようなものだったようだ。やはりこの辺には時代を感じる。
そしてまた、学生運動に関しては「民青系が反民青系を分裂主義者だと指弾している」と映っていたようだ。
確かに共産党は、何事においても原則主義で頑固だ。ちなみに部活動は「部落問題研究会」に入ったようである。
また、昭和42年10月26日には、公務ストの支援として、京都市電の烏丸車庫や壬生車庫に支援に行ったらしい。
学生運動の時代は、こんなことも普通にやっていたようだ。
ところで、中華料理の「珉珉」は、この時代からあったようだ。
また、昭和42年12月21日には、「部屋でレイ・チャールズの声に合わせてゴーゴー踊った。楽しかったが終わってから虚無的な気持ちがした」などと書いている。
ゴーゴー踊る時にミニスカートだったかどうかは不明。
20時過ぎて、夜食に焼きそばとモツ煮を食べることにする。いいのか。
それはともかく、昭和43年1月22日になると、日記を書くことそのものに関しての考えが記されている。
「このノートは私のものである。このノートは醜いものでなければならない。私自身が醜いものなのだから。このノートに向かう時は、誰にも遠慮する事は無い」と書いている。
まさにそうなのだ。日記とは誰はばかることなく、自分自身に向き合えるところだ。
だからこそ、日記というものに興味を覚えるのだ。
そうかと思えば、2月頃には栃木の実家に戻り、一日中テレビ三昧だったりしたこともあったようだ。
栃木の実家では、政治的な話はまるで出てこない。
2回生になると、部落問題研究会を辞めてワンダーフォーゲル部に入る。
昭和43年12月に入ると、タバコを吸うようになったが「悪の道に踏み入れた。でも決して美味しくない。健康に害があって、専売公社を儲けさせるだけだ」などと書いている。
その同じ月の12月17日、「絶対に昨日の事は忘れるな。裸同士の男と女が、子供のぶきっちょさで遊んでいた」と書いている。つまりここで女を散らしたということ。あーらあら。
で、また、このことに関して色々と長文を書いているのだが、こういうことまで本にされて公表されるということを予期していただろうか。
そして昭和43年の年の瀬、西那須野の実家に帰るところで、この本は終わっている。
しかし、西那須野では政治的な話をひけらかすこともなく、普通に過ごしているようだ。
そういったあたりは、女性らしいバランス感覚なのだろうか。
ちょうどここで21時となった。
7階のラウンジもここで終わりである。
後はベッドに戻ることにしよう。
そして、明日は日のある時間を有効に使いたいので、今のうちに風呂に入ってしまうことにしよう。
そこでやはり気になるのは髪の密度なのだが、どうも顳顬だけではなく、額の上全体が薄くなったような気がしないでもない。
そこまでいちいち右顧左眄するのであれば、さっさとAGAのクリニックにでも行って、何らかの診断をしてもらった方が良いだろう。今の時代はオンラインでもできるのだから。
帰り次第、予約することにしたい。
まぁそれは帰ってから考えるとして、「二十歳の原点」を読み進めることにしよう。
いよいよ本編に入る。
昭和44年以降に入るが、やたら哲学的な記述が多く見られるような気がする。
また、学生運動も過激化しており、代々木系か反代々木系かの争いもひどくなっていく。
名実ともに「時代と人生」を映し出した読み応えのある日記になっていく。
この年の2月2日には「私はこのノートに向かう時活気づく」と、自らの人生における日記の意義を記している。この点は古川ロッパと全く同じ。
やはり日記とは、そのような効用があるのだ。
22時に廊下が消灯した。
後はもう寝るだけ。
ここまでの決死出演は2名(累計12名)。