今や、義足で走るのは当たり前になってしまった。
これだって科学の進歩あればこそである。
義手や義足はは、そもそもどのような歴史をたどってきたか。
それをまとめた記事が、昭和34年9月12日の朝日新聞に掲載されている。
当時、国立身体障害者更生指導所は「東京都新宿区の閑静な高台」にあったようだ。
つまり、その後の東中野の義肢装具サポートセンターのところにあったのだろうか。
これを記者が見ると「ギョッと、腰を抜かさんばかりに驚いた。机の上に手首から先を切り放した、きれいな女の人の手が一つ乗っている。スリラー小説の一場面ではない」
これは、今で言えば「コスメチックカバー」と呼んでいるものであろう。
当時は「人工手袋」と呼んでいたようだ。
この当時の「普通の義手」は、「海賊キッド等の映画でご存知のように、金属製のフックと言うハサミ上の鍵が、日本並んでいて、つかんだり、放したりする」と言うようなものであった。
記事では、ギリシャ神話の時代以降の義足や義手の歴史や、現在のアメリカなどの切断障害者の状況を一くさり説明し、そのあとで、当時としては最新のプラスチック製の「サクションソケット」(吸い付き義足)について説明している。
歩き方も「健常者と変わらない」と書いている。
インテリジェント膝継手ではなかった頃の大腿義足でそれならかなり凄い。
また、義手についても「ファンクショナル・アーム」として研究をすすめているということであった。
この記事に出てくる稗田正虎氏は本来整形外科医であり、九州医専(現:久留米大学医学部)を出てからは手術に打ち込んでいたが、戦争の頃から傷痍軍人につききりとなり、「他にやる人がいないので」義手や義足の研究を進めるようになったのだという。
この稗田氏、昭和62年に亡くなられているが、追悼文が「総合リハビリテーション」誌に掲載されている。
文中にいわく「この時期、国際的な義肢装具の情報はすべて先生を通じて我が国に入ってきました」というほどの義足・義手の泰斗だったようである。
この「国立身体障害者更生指導所」、流れとしては現在の鉄道弘済会義肢装具サポートセンターと同じ流れになるのだろうか。
ちょっと朝の時間で南千住に行ってみることにしよう。
「水曜仕事」となる。
ということで千代田線ではなく快速に乗って南千住へ。
さすがは首都圏の駅だけに、乗降客はそこそこいる。
そして、義肢装具サポートセンターはそのすぐ裏手にある。
JR貨物の隅田川駅の敷地内にあるためか、JR貨物のマークもある。
さて、怪しまれる前に、表口のバーガーキングで朝食にでもしましょう。
そんな「義手と義足の昭和史」。
今回の決死出演は1名(累計20名)。