雨の相模湖

北日本や東日本は日本の東の沖合を中心とする高気圧に覆われているが、日本の南には、すぐ停滞前線が迫ってきている。
天気予報も、昼からは雨が降るという予想となっている。

ゴールデンウィークが始まったが、世間は知床の遊覧船事故の話題でもちきりである。
まだ、10名以上の生死が不明なのだ。
それで、知床の他の遊覧船業者は、遭難者の捜索を優先し、ゴールデンウィークは遊覧船を営業しないのだと言う。

今回は、その「遊覧船の沈没事故」に関してダークツーリズムを行いたいと思う。
それは昭和29年10月8日、相模湖で麻布中学校の中学生22名が犠牲になったという遊覧船事故についてである。

第一報は、昭和29年10月8日金曜日の読売新聞夕刊である。

一面トップは、西ドイツがNATOに加入するかどうかに関しての国内議論。
ナチスドイツが崩壊し新しいドイツとなって、まだ10年と経っていない時期である。

その隣に、「相模湖で遊覧船横転 80名水中へ」と言う見出しが踊っている。
相模湖に遠足に来ていた麻布中学校の中学生たちが、遊覧船に乗っていたのだ。
しかし、定員19名の船に80名が乗るとは正気の沙汰ではない。

昭和22年に完成した相模ダムは、相模湖として観光地となっていた。
時あたかも10月といえば、これから紅葉になろうとするシーズンである。

第一報の時点では、まだ4名が行方不明と言う扱いであった。

同じ頃、ラジオでもニュースが流されても速報的にこの事故のことが伝えられていた。
それで、名前の上がった麻布中学校の中学生の親たちは、一斉に中央線で相模湖へ向かうこととなった。

翌10月9日の読売の社会面のトップには、絶望的な見出しが踊っている。
「22名は絶望」。

朝刊なので、日付が変わって午前2時ごろ現在の情報となっている。

沈没のあったその日に、遠足に来ていた麻布中学校の中学生276名は点呼を行ったようである。
その結果、どうしても22名が見つからなかった。
その22名はおそらく絶望ではないかと言われたのである。

助かった生徒は、泳げなかったのだが船にしがみついていたのだと言う。
そのうちに救助船が来て助けられたのだと言う。

運転手と船主は逮捕され、取り調べを受けることになった。
船主は「運転手が、定員超過でも子供だから大丈夫だと言って乗せた」と供述したのである。

その日の夕方、10月9日の読売新聞夕刊ノー一面トップでは、絶望視されていた22名のうち、21人の死体を収容した事が報じられている。

9日の捜索は、朝の5時から始まった。
警察や消防団や自衛隊の隊員が550名が相模湖に繰り出した。

最初の死体が上がったのは、朝の8時32分であった。
8日の朝、元気に家を出発したであろう麻布中学校の生徒は、この時冷たい死体となって引き上げられたのである。
母親は「寒かっただろう」と泣き伏すだけであった。

結局、13時45分までに、21名の死体が引き上げられることとなった。

しかし、ご遺体をそのまま新聞紙に掲載するというあたりが、当時の報道の倫理と今と違うところである。

この相模湖の事件は、全国的にも大きな波紋を呼ぶことになった。
それでなくても、この事件から1ヶ月と経っていない前に、青函連絡船洞爺丸の沈没もあった。

それで、相模湖から遠く離れた岡山の昭和29年10月15日の山陽新聞にも、その狼狽ぶりが掲載されている。

岡山と言えば、宇高連絡船が高松に走っており、四国の玄関口ともなっている。
相次ぐ船の事故に、その宇高連絡船すら怖いと言うのである。

岡山でも、小中学校は遠足シーズンを迎えていたが、父母が「船はやめてくれ」と懇願するなど、現場は混乱を極めていたようである。
岡山では、瀬戸内の小豆島などの島々が、遠足の人気の行き先だったようである。

さて、ダークツーリズムと赴くこととしたい。

目が覚めたら8時過ぎであった。
いよいよ今日からゴールデンウィークが始まる。

今日は相模湖にダークツーリズムに行きたい。
しかし、今日じゃないと受け取れない宅急便の荷物があるので、それを待たなければいけない。
時間指定は一応午前中。

本当ならば、7時ぐらいに起きだして、弁当屋のイートインででも朝食を食べつつモーニングルーティンをこなし、作業服やズボンをクリーニングに出したかったところだったのだ。
それでも昨日は帰りが遅かったので仕方ない。

とりあえず風呂に入って拙ブログ冒頭の天気図など。

そして風呂から上がり、他のSNS案件を次々とこなす。
そして「ピンポーン」となり、クロネコの配達が来る。
あとはもう自由だ。

そして小雨の中を出発し、クリーニングを出す。
そして新京成線の中の人となる。

八柱で武蔵野線に乗り換えつつ吉牛で朝食。
最近は八柱駅ビルの鮪市場が閉店して悲しみに暮れていたところ、次の店舗の工事をしていた。

このテーブル構造はもしかして… 焼肉ライク!?
これはありがたい。いい「肉の日」だ。

そして武蔵野線の中の人となる。
そして西国分寺で乗り換え。
立川行きや特急を数本見送って、各駅停車の高尾行きに乗る。

そして高尾で大月行きに乗り換える。
115系のカラーは長野局のカラー。
高尾から次の駅で相模湖駅に到着。
駅は完全に雨。全く観光に適した天気ではない。

それでも相模湖に向かって歩いていく。
坂をどんどん下っていく。
この様子だと、帰る時はやたら坂を登ることになりそうだ。

果たして相模湖に到着する。
足こぎの遊覧船と言う遊覧船は、ほとんどが岸で暇そうにしている。
波が立っているわけでは無いのだが、いかんせんこの雨である。

観光地化されているだけあって、遊戯施設も充実しているのだが、的当てだのなんだのがいちいち「昭和」なのである。

挙句の果てには今止まっているトラックのナンバーが「群4」。
一桁ナンバーなんて見るのは何年ぶりだろうか。

遊覧船は、2人か3人であそこにで行く遊覧船が主であった。
それ以外の多くの人が乗る「スワン号」という遊覧船も一応あるにはあるのだが、遠くを航行中であった。

別に、遊覧船に乗ることにこだわるわけではないので、雨の相模湖をダークツーリズムできれば全部こちらとしては特に言う事は無い。
踵を返して戻ることにする。

相模湖駅から高尾方面の電車は、13時42分というのがある。
もしかしたら、図書館で今日のダークツーリズムに関する新聞記事を調べることができるかもしれない。
そう思ってYahoo!路線で調べてみると、16時前には到着するようだ。
それなら一つ行ってみようか。

それで高尾で中央特快に乗り換えて御茶ノ水へ。
車内では副業ブログでもしようと思ったが、全然できなかった。

さて、朝食は11時ごろで遅れたので、昼食も16時に近い今も食べることにしよう。
御茶ノ水と言えば、すた丼がある。
すた丼で昼食を食べることにしたが、店内がやたら臭い。
ここは大丈夫なのだろうか。
そう思いつつ、まぁ食べたけど。

そして、千代田線に乗って日比谷図書館へ。
日比谷図書館で、相模湖の事件当時の読売新聞をコピーすることにする。

さて、今度は日比谷線に乗って東銀座に赴くことにしよう。
ぽわんちゃんが、おつまみわかめをやたら気に入ってくれた。
今日も「いわて銀河プラザ」で補充することにしよう。
今日は、琴音ちゃんが出てくれる日なのだ。
それで、ぽわんちゃんの店の向かいにホテルをとって、終電を気にせずゆっくり飲むことにしたのである。

そして、雨の中を「いわて銀河プラザ」で諸々のお菓子などを購入した後、また日比谷線に乗って秋葉原を目指す。

秋葉原では、キンコーズでPDF化して駅前の喫茶店で電源取りつつ、今日のブログを書く。
ダークツーリズムなのでやたら長くなるのは必至である。

…と、ぽわんちゃんが「今日はワンオペ」とか言ってる。
琴音ちゃんは!?

と思ったら、琴音ちゃんは38℃以上の熱を出しているのだという。
もしかして感染…?
何だってまたこんな時に。
こっちもせっかくホテルまで取ったのに…
まあ体調のことだから仕方ないんだけど。

さて、20時も近づいたし行きましょう。

秋葉原から総武線の黄色い電車に乗ると、コーナーにそれほどガラガラだった。
それでそのまま新宿へ。
ことのついでに、副業ブログも数記事付けた。

そして新宿へ。
夕食としたいが、今日はベトナム料理でも食べようか。
そう思ってベトナム料理に行くと、「予約がないと入れないんです」と言う。
仕方がないので、向かいの「龍の巣」へ行くことにする。
ここでカツ丼を食べる。
ついでに、すじ煮込みも頼むことにする。

そしてホテルにチェックイン。
残った7人のメンバーも、洗いに出すことにする。
これで明日はイロハシャッフルである。

そして諸々の準備が完了したら、ぽわんちゃんの店へ赴く。

最初は、ぽわんちゃんを「ぽわんちゃん」と呼ぶ面々が来ており、夫婦生活やら何やらのディープな話をしていた。

その後、だんだんに「ひなちゃん」と呼ぶ面々が店に来た。
最近は、いろいろなイベントを入れているようで、そんな話で終始した。

なんと実に、2時40分ごろまで飲んでいることになった。
もう体力がもたないので、これで失礼させてもらうことにした。

そして向かいのホテルで死んだように眠るだけである。

 

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