北朝鮮KCTV「録画報道:国土管理事業を本格的に差し出している」より🇰🇵
まずは平壌市内から順安空港に行く途中にある兄弟山区域で何かやってる。
そして芸術宣伝隊が黄緑のお洋服着て旗振ってる。
そうかと思えば平安南道の北東の果てで鉄道のジャンクションである球場郡では、河川に関する何かの構造物を設置するらしい。
今日は、いわゆるダークツーリズムになるので、まずは新聞の紹介からいきたい。
今回扱う事件は、昭和27年に発生した佐古山における女医殺しである。
まず最初にこの事件が報じられたのは、昭和27年9月18日の徳島新聞である。
先日の9月17日の夕方4時ごろ、6歳になる男の子が、諏訪神社の裏から「母ちゃんが!母ちゃんが!」泣き叫びながら降りてくるではないか。
付近の住民は、どうしたことかと思って当時の徳島市警察署に通報した。
これが事件の端緒となる。
経緯としては、上佐古町4丁目で小児科医院を営む女医が、2人の子供を連れて、近くの諏訪神社の裏から眉山に登りに行ったところ、子供達の見ている前で、何者かに刺されて殺されたと言うのである。
被害女性の夫は鉄工所を経営していたようだが、「恨まれる覚えは無い」と言っている。
被害女性は、昭和6年に徳島高等女学校(現在の徳島県立城東高校)を卒業し、昭和11年に大阪女子医学専門学校(現在の関西医大)を卒業したのだと言う。
ちなみに、「幸福の科学」の大川隆法は城南高校(旧制徳島中学)の卒業で、総合選抜制度の導入されて初めての入学生であるようだ。
また、これより先、7月20日にはアベック切り事件というのが起きており、その関係も疑われることになった。
翌9月19日の徳島新聞では、警察非難の見出しが上がっている。
事件発生から非常線を張るのが遅かったと言うのである。
事件発生は17日の夕方4時ごろ、非常線を貼り出したのは早3時間後の夜7時頃であったと言うのである。
ただ、これには警察にも言い分があるようで、「人相風体がわからないことには、非常線など張っても意味がない。目撃者は幼い子供でもあり、聞き込みに時間が掛かったのは確かである」と言う反論を行った。
また、警察は、市民が協力してくれないということもぼやいていた。
曰く「迷惑をかけないから協力して欲しい」と。
これは、昭和の警察史を読んでいるとよく当たる記述であるが、警察に対して証言を行うという事は、自分たちのコミュニティーの誰かが、逮捕されたり何だりにつながるわけである。
警察が来て話を聞くだけでも、「誰が自分を告げ口したんだ」と言うことになってしまう。
また、7月のアベック斬り事件も、犯人が上がっておらず、被害者にその時の様子を聞くなどしていた。
死者が出なかっただけに、警察でもさほど力を入れていなかったのだろうか。
非常線を張るのが遅かったということに批判が集まるのは性急な気がしないでもないが、アベック斬り事件を解決できないことがこの殺人につながったのではないかと思えば、警察に批判が集まるのは仕方ないことだったのかもしれない。
翌20日の徳島新聞では、被害者の子供たちから写真入りで談話をとっている。
今ではこのような取材は全然できないのではないだろうか。
もし今子供たちがコメントをOKしたとしても、世間が許さないだろう。
「マスゴミ」呼ばわりされ、記者の個人名が晒され、嫌がらせの電話が殺到して新聞社の業務にまで支障を来たすのである。
ともかく、その子供たちの語ったところによれば、見知らぬおじさんが近づいてきて、お母さんを連れて行こうとしたのだと言う。
そして、逃げようとして四つん這いになったところを短刀のようなもので刺したのだと言う。
その顔思い出せるかと聞くと「思い出せる。あの顔を忘れられない」と答えていた。
そんな恐ろしい事件を目の前で見た子供たちは、その後心のケアを十分にされただろうか。
ただ、この間にも、市内からは有力な情報が続々寄せられていたようである。
翌21日の徳島新聞では、事件から4日が経過し、焦燥の色を隠せない警察の姿を追っている。
容疑者は、市内の前科者を中心に何人か上がってはいるようだが、そのたびにアリバイが証明されて「白」になっては振り出しに戻りを繰り返しているようであった。
また、前日に徳島新聞の取材に回答していた子供たちを現場にまた連れて行って、目撃したときの情報を聞いていると言うことであった。
これはなかなかハードである…
また、捜査の方向はモヒやヒロポンの中毒者にも向けられていると言うことだった。
モヒとはモルヒネのこと。
覚せい剤の使用が非合法になってから、それほども月日が経っていない時期のことであった。
また、隣県である香川県の警察本部からは、琴電の仏生山駅の近くで女性が殺された事件が、この事件に関係あるのではないかと言う情報がもたらされた。
しかしその香川の事件は、物盗りを目的としたとした事件であり、なおかつ手ぬぐいで絞殺したと言う点から、全く別の事件ではないかと言う見立てとなった。
容疑者は浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返していた矢先の9月23日の徳島新聞である。
捜査本部に、かなり有力な目撃情報がもたらされたようである。
それは徳島市内の23歳の女性で、「事件の2日前である9月15日、眉山にドスのようなものを持った怪しい男がいた」と言うのである。
また、事件前日の9月16日には、22歳の洋裁学校生が暴行されたと言う情報も入ってきた。
やはり着衣や人相が犯人に酷似してると言うのである。
これは、捜査も大詰めに来たような感があった。
ところで、この日の社会面のトップは、松茂飛行場についてのことである。
現在、徳島県板野郡松茂町にある徳島空港は、日本で唯一海上自衛隊が管理する飛行場でもある。
もともとは海軍航空隊の飛行場であったところ、敗戦により米軍に接収されているところであった。
サンフランシスコ講話条約により日本が空を取り戻した昭和27年の時点で、このような米軍による接収の飛行場を民間使用すると言う案は既にあったのだ。
結局、徳島空港における民間航空の開設は、この5年後の昭和32年のこととなる。
犯人は、徳島駅に近い新町川の近く藍場町3丁目に住む35歳の日雇い労働者であった。
この「藍場町3丁目」というのをGoogleマップで調べてみると、全く出てこない。
徳島市藍場町は現在2丁目までしかないのだ。
その藍場町にしても、「藍場町公園」というのが広がっている。
もしかしてこれは… と思って調べてみたら、案の定この藍場町公園と言うのはスラムクリアランスとして整備された公園のようだった。
つまり、犯人はスラムの住人だったのだ。
逮捕当初は犯行否認していたようだったが、証拠をつきつけられに及び、がっくりと首をうなだれて犯行を認めるに至ったようである。
ます、アベック斬りの方であるが、夜に眉山を歩いているとアベックがおり、あまりの仲の良さにムラムラして声をかけたのだと言う。
なるほど、ムラムラしたら襲う。これがスラムの住民のクオリティーか。
女医殺しに関しては、「子供たちがどんぐりを拾ったりしているところを、離れて座っているのを見て『非常識な女だ』とムラムラきて襲った」というのである。
藍場スラムに住んでいたその男の中にどんな常識がセットされていたのかはともかくとして、ムラムラ来たら襲う。それがこの男の思考回路のようだった。
翌9月29日の徳島新聞には、より詳細な犯行の経緯が報じられている。
犯行当日の9月17日、職安での職にあぶれた後、徳島地方裁判所で傷害事件の裁判を傍聴したり、西の丸球場で野球を見たりしていたのだと言う。
裁判の傍聴というのは確かに入場料がかかるわけではないので、スラムの住人にとって1つの娯楽たりえたのだろうか。
そして午後3時ごろ、眉山のほうに行くと、アベックが上から降りてきたので、もう1組ぐらいアベックが入るだろうと上ったのであると言う。
この男にとって、アベックがいる事が何だと言うのだろう。アベックがいたら襲ってやれと言うことだったのだろうか。
もはや人間のする思考ではない。
そんな獣の視界に、数人の子供を連れた女性が入ってきたのであるーーーー
さて、ダークツーリズムに出るとしよう。
それに先立って、イロハシャッフルを行うこととしたい。
ここから先は以下のような陣容で回していく。
そして朝食である。
コロナの影響で、バイキングをやっていないのだと言う。
だったら高い思いをして朝食付のプランにするのではなかった。
和食か洋食か選ぶようになっており、和食だと魚が結構多かったので、洋食にすることにした。
朝食会場に行ってみると、ソツの無い感じのいかにもなホテルマンが紳士的に案内をしていた。
しかしそんなソツのない感じのオッサンでも、四国訛りが出ると、あの四国の呑気なオッサンに早変わりしてしまう。
食べ終わって部屋に戻ると、テレビのニュースでは、関東地方に台風16号が近づいていると言うニュースを報じている。
少なくとも午前中は、首都圏の電車も止まるのではないかと言う見立てがなされていた。
さて、8時も20分を過ぎた。
そろそろチェックアウトして出ることにしましょう。
徳島駅前から、現場近くの佐古に行くバスは、Google マップで調べる限りでは結構頻繁に出ているようである。
徳島市営バスだと、1番と言う系統番号のついたバスがそれに該当するようだ。
四国4県の県庁所在地の中でも、徳島以外は鉄道や軌道が発達しているが、徳島だけはそのようにはなっていない。
しかし、徳島市営バスといい小松島市営バスといい、公営交通が発達している。
少し早く出てきたので、高速バスの乗り場も見てみたい。
見てみると、東京行きは大阪行きだけではなく、金沢や福井に行くバスも出ていると言う。
徳島から金沢や福井なんて、高速バスを定期的に運行するほどの需要があるのだろうか。
それはともかく、徳島市営バスの乗り場に、1番の上鮎喰行が来たのでそれに乗ることにしたい。
徳島市営バスと言うのは210円均一で、PayPayも使えるらしい。
PayPayが使えるバス会社なんて、これまで十勝バスしか知らなかったのでこれはありがたい。
全国の交通事業者でもこの風潮を展開するべきではないだろうか。
兎も角も、諏訪神社に最も近い佐古三番町で降りる。
そして、眉山のほうに歩いて行く。
被害者宅のあった「上佐古」と言うのは、バス通りでもある国道192号線の1本南だったらしい。
その「上佐古町」の古い倉庫は、あの日に心を躍らせながら眉山に向かっていった母と子供たちを見ていただろうか。
いみじくもその時、若い母親が幼い娘を自転車に乗せて、眉山方向に走り去って行った。
ところで、現在同じルートを眉山まで登ろうとすると、かなりの樹木が生い茂った道なき道を登らないといけないようなのだが、昔はそうでもなかったのだろうか。
さて、撮るだけ撮ったら後は徳島駅に戻ることにしたい。
というか、この佐古三番町から南海フェリーに直接行くことができるらしい。
だったらそれで行くことにしようか。
果たして、バスに40分近く揺られて、乗り換えなしで南海フェリーまで到着することができた。
南海フェリーは南海電鉄が経営するフェリー会社だけに、徳島港の時点で難波までの特急券まで買うことができるのである。
「紀阿航路」と呼んでいた頃は小松島出帆であったが、今では徳島出帆となっている。
船の出発なら「出帆」と言う言葉が似合う。
さて、この南海フェリーの和歌山への出帆は11時ちょうどとなる。
フェリーらしく、マス席に陣取って寝ながら、ブログでもつけることにしよう。
そう思ってたら、仕事のメールがして、やり方を教えて欲しいと言う事だったので、忘れないうちにやり方をメールに書いて送る。
そして、今日のダークツーリズムの新聞記事を書くと言うなかなか重労働。
しばらく寝ていたら、もうすでに船は和歌山港内に入っていた。
急いで降りる準備をする。
和歌山港のフェリー乗り場の待合室は、非常に質素になっている。
これこそが、日本で1番最後に残った鉄道連絡船の待合室である。
考えてみれば、南海フェリーには何回か乗っているが、和歌山から徳島に行ったと言う事はほとんど記憶にない。
あ、いや、記憶にないこともない。
確か2004年、ブラック労働にあえいでいた時に和歌山からフェリーに乗ったんだった。
あの時の印象は特になかった。
ところで、フェリーの待合室から電車の駅まで、動く歩道ができていた。
これ昔からだっけか?
それはともかく、和歌山港駅もなかなか古式蒼然としている。さすがは南海である。
和歌山港からの南海電車は真っ赤で、「めでたい電車」と言うのだと言う。
客は数人であった。
ほどなくして和歌山市に到着し、特急「サダン」に乗り換える。
決死してたら、駅までは写真に映り込んでしまった。
「今映り込んでましたよね。それ消してくれます?」なんてケチくさいこと言うような駅員じゃなくてよかった。
和歌山市からの「サダン」も結構ガラガラであった。
前半分は通勤電車4両、後ろ半分は座席指定車4両の8両編成で、順調に難波へ北上していく。
その間、こちらはブログを口述筆記で書いていく。
おそらく周りも気にならないほどの声なのではないだろうかと勝手に自分で思っている。
そして大阪の西成の街並みが広がり、いよいよ難波に到着する。
難波の方までは、車内清掃のおばさんたちがお辞儀をして到着を出迎える。
なるほど、これこそが「特急」である。
難波からは地下鉄に乗り換えて新大阪を目指す。
新大阪駅の御堂筋線は、かなりガラガラであった。
これが心斎橋に着くと、ある程度乗客が乗ってきたは、梅田に到着するとその乗客はほとんどいなくなり、新大阪に到着する頃にはほとんど人がいなかった。
新大阪では、新幹線に乗る前にぽわんちゃんの店にお土産を買って行くことにしたい。
この手のお土産は、いつも東京に帰る前の最後の滞在地のお土産になってしまう。
そして、15時24分発ののぞみ112号の中の人となる。
車内で、思い切ってサブ垢を作成。
さあ、東京からぽわんちゃんの店に直行である。
そのまま中央線の快速に乗って新宿へ向かいたい。
さすがに中央線の快速は、座って行かなきゃいけないかなと思ったが、意外にも座ることができた。
今日からぽわんちゃんの店も21時まで営業時間が伸びる。
早速行きたいところである。
その前に、例によって沖縄料理「やんばる」で腹ごしらえする。今日は、ふーチャンプル定食である。
今日の東京都のコロナ感染者は、200人ちょうどであると言う。
それでも、油断はしない方が良い。
せめて緑茶うがいだけでもやっておこうか。
果たして、ぽわんちゃんの店へ行くと、TERUさんが先客でいた。
名古屋から泊まりがけで来ているようだ。
こちらは早速、予約していたシャンパンをおろすことに🍾
それと、吉四六もボトルキープすることにした。
そんなこんなで21時まで。
あとは、例によって代々木上原から千代田線経由で帰ることに。