20世紀フォックスによる映画「Love is a many-splendored things」が公開されたのは1955年8月18日。
これが日本で公開されたのは、その3ヶ月後の昭和30年11月18日となる。
昭和30年11月12日の読売新聞夕刊の文化面では、「慕情」と放題の付けられたそのアメリカ映画が有楽座で18日に公開される旨の広告が出されている。
有楽座はその名の通り有楽町の日比谷寄りにあり、昭和12年に東京宝塚劇場による劇場として創設されたところ、戦時中は風船爆弾の工場として徴用され、戦後は昭和26年に完全に映画館に用途変更したと言う歴史をもっている。
現在でも「TOHOシネマズシャンテ」としてなお映画館として盛業中である。
他の記事に目を移すと、左上に青東駅伝に関する記事が掲載されている。
青東駅伝・・・後年の東日本縦断駅伝の歴史は複雑である。
昭和26年、サンフランシスコ平和条約締結を記念して開始され、昭和46年まで続く。
しかし渋滞の悪化で昭和47年から秋田・山形の国道7号線・13号線経由となるも昭和49年に中止、その後昭和57年に東北新幹線の開業を記念して盛岡をスタートとして復活し、翌昭和58年には青森からのスタートに復活している。
しかし2002年を最後として開催されなくなってしまった。
そして日本国内で上映された「Love is a many-splendored things」、邦題「慕情」はどのように評されたか。
キネマ旬報から読みだしてみたい。
「キネマ旬報」昭和30年12月上旬号では、森満二郎という評論家によって「慕情」の評論がなされているが、結構辛口である。
いわく、
・東洋と西洋のハーフである主人公の懊悩が皮相的にしか書かれていない。
・ブッチーニまがいの甘ったるい主題歌。
・無気力に平凡な恋愛映画。
この森満二郎氏、検索する限りでは1950年代のキネ旬に評論を寄稿しているようである。
また、フランス語の翻訳も手掛けていたようであるが、それ以上のことは検索する限りでは不明である。
さて、この「慕情」のような香港を舞台にした大恋愛をした日本人もいたようなのだが・・・
1957年2月21日の香港工商日報に第一報が報告されている。
つい最近の香港の反中闘争の主要な舞台となった香港大学にも程近い聖士提反里でその事件は発生した。
2月20日の19時半過ぎのこと。
聖士提反里で年若い女性が「強盗!助けて!」と叫んでいるのを周辺住民が聞いていた。
集合住宅の管理人が警察を呼ぶと、そこには年若い女性が胸を数か所刺されて死亡していた。
その死体の手袋からは、日本人らしき姓名を読みだすことができた。
この日本人は近くに独り暮らしだったらしいが、この時点でどのような素性なのかは分かっていない。
日本総領事館でも詳しいことは分からなかった。
翌2月22日の香港工商日報では、九龍酒店における男性の自殺未遂事件を報じており、それが先般の女性殺人に関係しているのではないかとしている。
その男は前の晚つまり事件のあった日の晚に泊まりに来て宿帳はイングリッシュネームで記入したのだという。
ただし訛りからおそらくは旧満州の出身なのではないかという見立てであった。
この自殺未遂は警察にも通報され、程なくして京士柏徒置区管班事務所員の男29歳であることが判明した。
ところで「徒置区」とは?
1953年、石硖尾という所で大火が発生している。
それは「香港の秋葉原」深水埗にも程近い石硖尾という所にある大陸からの引き上げ者住宅で火災が発生し、6万人近い被災者を出すことになった。
この被災者を収容する為に香港政府が各所に高層住宅を建設しスラムクリアランスを図ったのがその初めである。
京士柏のそれは、現在は球技場となっている。
この香港で発生した邦人女性殺害事件は、その出身地の静岡新聞にも掲載されるところとなった。
現在でこそ静岡市に合併されてはいるが、2008年まで由比町という1つの自治体だった場所である。
歌川広重の学世絵にも「由井」として残されている程の絶景の名所でもある。
昭和4年の早生まれであった被害者は雙葉高女の出身…と書いているので、現在の静岡雙葉中・高の出身なのであろう。
ただし同校が雙葉学園の傘下に入るのは昭和26年のこと。
それ以前は「不ニ高等女学校」と呼称されていたようである。
そこから米軍立川基地で通訳しながら相模女子短大まで出たというから、相当に意識は進んでいた女性だったのだろう。
海外旅行すら自由化されていなかったこの時代、海外に意識を持つということがどれだけのことであったか…
翌23日の大公報では、「香港で殺された…」という手書きの文字と共に、その後知り得た被害者についての詳細を掲載している。
被害者は安宅産業の香港支店で試用社員だったのだという。
今でこそ存在しないが安宅産業は日本でも有数の貿易商社であった。
元々はこの香港での砂糖取引が祖業であり、香港は特別な地であったという。
さて、事件発生翌日の晚、被害者の隣室に女性から電話があったのだという。
中国語のできる日本人がいたのだろう。
「もしもし、(被害者)さんいらっしゃいますか?」
「亡くなりましたよ!」
「何?いま亡くなったとおっしゃいましたね?どうして?」
「詳しくは知りませんけど、新聞読んでないんですか?」
「どうして… どうして…(涙)」
「ところでおたく様は?」
「私は香港まで来る船で一緒だったんです。お母さんと弟さんが香港までいらっしゃるって…」
この隣人と加害者は遼寧省で同郷の友人であり、また加害者と被害者は結婚しようとしていた。
被害者のパスポートが半月で切れるので、急いで婚姻届を出して有効期限を3ヶ月まで延ばさないといけないところだということまで認識していた。
さて、こんどは加害者の男のプロフィールである。
中国東北部訛りの男は被害女性の1つ上の29歳であり、早いうちに両親と死別し不遇であったようではあるが四川省は成都の陸軍学校を卒業し、1950年に香港に来て徒置区の仕事に就いていた。
給料も少なく友人達には2〜3000元の借金があるといい、大学出で日本語や英語の得意な被害女性と違って自分は中学校も碌にれておらず方言も直らないという有様で、女性の絶望と男のコンプレックスは日に日に増大するばかり。
女性にしてみれば親兄弟の大反対を押し切って香港に来た手前、帰るに帰れないということ、それに何より旅費がないというのが最大のネックで「日本に帰るくらいなら海に身投げでもした方がいいかしら」とすらこぼしていたという。
男の友人によれば、精神的に不安定の時もあったようで、
「俺は結婚に破れそうだ」
「くよくよするなよ。女なんて他にいくらでもいるだろ」
「フン、お前らには分からないんだ」
とこぼしていたのだという。
いずれもカトリックの信者であり、年ぐらい前から文通していたというので「慕情」公開よりも前ということになる。
そしてひどいのは、文通している時に男は「僕は香港では高級官僚で給料も良いんだ」と自称していたのだという。
しかし実際は先述の通り、いわば公営住宅の事務所員といぅ下っ端役人であり、給料も年月220HK$(約15,000円)で、当時の日本とさして変わりない物価水準だったようである。
当時であれば1US$は360円の固定相場制の「ブレトン・ウッズ体制」。
またHK$は本国である英ポンドとの固定相場で£1が16HK$となっていた。
そしてまた、女性に与えた部屋というのがその給料とほぼ同額である210HK$だったのだという。
たとえば現代、家賃20万円程度で都内ならどのくらいの物件が借りれるかというと、豊洲や中野などのタワーマンションが十分借りることができる。
それだけの生活ができるというのであれば、それは女性もさぞ夢を抱いたことであろう。
しかしそんな虚構は長続きせず、女性も現地でタイピストの職を得て働きに出ることになった。
そして裁判はどうなったか。
それが昭和32年6月14日の読売で報じられている。
結局、「証拠不十分」で無罪となり釈放されたのだという。
奇しくもこの昭和32年、本事件発生の2週間ほど前の1月30日、群馬県で米兵が日本人主婦を射殺する「ジラード事件」が発生し、米本国では「アメリカの青年に未開な島国で裁判を受けさせるな」という運動が盛り上がったのだという。
結局、11月に前橋地裁で執行猶予付きの判決が出されるのだが、日本では「どうにか先進国並みの司法を示すことができた」と安堵したのだという。
それより半年前に、この女性の遺族は「先進国の裁判」というやつを嫌という程見せ付けられたということになる。
ところで、この社会面のトップの見出しは「片ちんばの好況」と、現在では到底使えない表現を大々的に使っている。
内容としては「好景気とは言いながら街には失業者があふれている」というもので、現在の安倍政権下のような状況だったようである。
証拠不十分で釈放されたのだから男はよかったのか…. といえば、どうもそうではなかったようである。
このことが10月20日の大公報で報じられている。
釈放後、男は京士柏の1つ東の何文田の徒置区に配転されたようである。
そして程なくしてこんどは深水埗や石硖頭のさらに北の大窩坪の徒置区に配転となった。数ヶ月でこの異動ぶりは、余程もて余されていたのではないだろうか。
しかしそこで突然男は突然独り言をぶつくさ言い出すなど手の付けられない状態となり、ついには精神病院に送られる羽目となってしまったというのである。
悲劇はそれには留まらなかった。
翌1958年5月1日の大公報では、精神病院に入院していた男がついに自殺に成功したというのである。
男は青山医院に入院していたという。
青山医院とは新界屯門にある香港でも有名な精神病院で、「青山」と言うだけで精神病院を表す符丁になるほどだという。
ただ、その青山医院は1961年の開院であるというので、時代的には合わないことになる。
青山病院の開院前は「域多利精神病院」というのが東辺街にあったようである。
東辺街というと例の事件現場のすぐ近くなのである。
男は、愛の巣であったはずの場所を目と鼻の先にして、殺めてしまった恋人の幻影を追い求めながら苦しんでいたであろうか。
そして半年強の時間を経て遂に、その恋人を追い掛ける旅に出ることができたのだ。
正に最悪の「慕情」がここに幕を下ろしたのだった。
さて、ダークツーリズムに出かけることにしたい。
今回のお旅立ちは、羽田空港の深夜便となる。
香港エクスプレスが23時55分発の深夜便を運行しているのである。
(決死モデル:トルソーさんのアハメス)
それでかなり余裕を持って旅程を組むことができた。
この時刻、羽田空港まで行く客といえば、自分同様国際線の客ぐらいのものである。
最近はバンコクといいドバイといい、深夜便がやたら充実しサラリーマンには有難い程である。
香港に到着したのは4:15のこと。
眠くてとても活動できたものではない。
それでもどうにか入国審査を終える。
この時間は機場快線なんて走っていない。
しかしバスは夜班車が走っており、Nの付いた系統番号が付いている。
N11というのが4:50に出発するというので乗り込む。
ここで少しでも寝れればよいが…
佐敦の恒豊大厦前に到着した時はなお暗かった。
(決死モデル:チームP芳香ちゃん)
それでも、この時刻からでもホテルにチェックインできるので、明るくなるまでの間でも、少し休むことにする。
最初、朝の4時到着でまさかホテル2泊? と思ったが、この展開だとむしろ有難い。
それで、明るくなるまで少し休むことにする。
夜が白み、そろそろ行制を始めたい。
ホテルを出て、24時間営業の食堂で香港粥を食べる。香港加油だけに香港粥。
そして弥敦道を南に歩いていると、尖沙咀碼頭行きの7番のバスが来たので乗る。
碼頭に到着すると、法輪功に反対する青年グループがポスターを貼っている。
いわく「法輪功は流言飛語を製造し、人を害する」。
おそらくここまで法輪功を悪しざまに言うのは中国共産党寄りなのだろう。
実際、この団体名で検索してみると、明確に「親中組繊」として日本語でも紹介されている。
それはともかく、2階健の天星輪船で中環へ。
(決死モデル:チームR持田)
今回扱った事件当時、日本と香港の航路は九龍の桟橋に到着したのではないだろうか。
そうなると被害者も、そして京士柏に住んでいた加害者も乗っていたはずである。
そして中環の桟橋からしばらく歩道橋を歩いて徳輔道へ。
ここから2階建ての香港トラムで西辺街を目指す。
やはり当時もこのトラムで… と言いたいところではあるが、事件直前、被害者が巴士から下りたのが目撃されている、という記事もある。
状況としては、中環にあった勤め先から般咸道へ行くバスを下りて帰宅しようとしたら、そこには夫と呼ぶ気もなくなったその人物が立っていて… ということだったのだろうか。
現在では、ランニングしている人や犬を連れた女性が步いている住宅街となっている。
奇しくも、その女性が歩いている正にその場所に血だまりがあったのである。
(決死モデル:チームPウメコ)
そして、その「夫」であった男が恍惚の中に最後の見果てぬ夢見ていたであろう精神病院へ行きたい。
ここは本当に近くにあり、現在は美沙酮依存症診療所となっている。
メサドンとは鎮痛薬であるが、依存性があるのだという。
元々は「華人精神病院」として1884年に建設されたという由緒のものである。
wikipedia中国語版にも載っているその建物であるが、「攝影嚴禁」と書かれていた。
(決死モデル:チームR園田)