今日は何の日(7月12日)
・人間ドックの日:1954年、日本で初めての集団による人間ドックが、国立東京第一病院(現在の国立国際医療研究センター)で実施されたことに由来。
・洋食器の日:「ナ(7)イ(1)フ(2)」の語呂合わせから、日本金属洋食器工業組合が制定。洋食器の品質向上と普及を目的としている。
・ラジオ本放送の日:1925年7月12日、日本初のラジオ本放送が東京放送局(後のNHK)によって開始された記念日。
・ナイフの日:「ナ(7)イ(1)フ(2)」の語呂合わせから、刃物の安全な使い方や品質への意識を高める目的で記念されることがある。
・ローリング・ストーンズ記念日(海外):1962年、イギリスの伝説的ロックバンド「ローリング・ストーンズ」がロンドンで初の公式ライブを行った日。
14時過ぎ、赤坂見附から丸ノ内線に乗る。
Googleマップで調べた限りでは、今日のダークツーリズム先までは、新宿から埼京線に乗ればいいようだ。
しかし丸ノ内線から埼京線というのはかなり歩かされそうだ。
ということで四ツ谷から中央線に乗り換える。
そして新宿で埼京線に乗り換える。
埼京線の川越行き快速は新宿での乗客の入れ替えが激しく、なんとコーナーに座ることができた。
ここで事件の紹介とすることにしたい。
昭和45年8月11日付の読売新聞全国版には、埼玉県戸田市で発生した凄惨な一家殺害事件が報じられている。
事件が発覚したのは前日の8月10日、昼過ぎのことだった。現場は戸田市内、荒川の近くにある一軒家で、斜め向かいに住む住人が、家の異常に気づいて中を覗いたところ、住人一家4人が血まみれで倒れているのを見つけ、直ちに警察に通報した。犠牲となったのは、40歳の工員の夫、37歳の妻、中学1年生の長男、小学2年生の次男の4人で、いずれも斧のような凶器で頭部をめった打ちにされていた。
この日、被害者夫婦が揃って無断欠勤をしていたことから、勤務先の工場の総務課長が不審に思い、近所に住む同僚に様子を見に行かせたことが、発見のきっかけとなったという。家族の生存が最後に確認されたのは8月8日午後9時半ごろで、同僚が街で夫と会っており、その時家族は近所の盆踊りを見物しに出ていたという。
警察の初動捜査によれば、4人は不意に襲われた可能性が高く、室内に争った形跡は乏しく、抵抗の痕もほとんど見られなかった。住宅は、夫の父親が建売住宅を購入して与えたものであったが、その父親との関係は芳しくなかったらしく、警察は当初から金銭目的の強盗殺人の線とともに、親族間の確執による怨恨の可能性も捨てきれずにいた。
しかし、事件はその後進展を見せず、犯人の行方は杳(よう)として知れないまま、いつしか新聞にも取り上げられなくなってしまった。
昭和45年8月27日付の読売新聞には、戸田市一家4人殺害事件に関する続報として、犯人逮捕の報が掲載された。
逮捕されたのは、被害者である40歳の工員男性の実弟であり、東京都内の旅館に潜伏していたところを、警察により身柄を確保されたという。報道当時の見立てでは、兄の妻、すなわち兄嫁に対して特別な感情を抱いていたとされ、犯行の動機は痴情によるものではないかと推測されていた。
もっとも、この新聞記事では触れられていないが、別の資料によれば、事件の本質は性犯罪目的であったとされている。犯人は以前から異常な性癖を持ち、兄嫁を標的に、何日も近隣を徘徊していたという。また、警察の取り調べにより、犯人は別の民家への侵入も計画していたことが判明し、それが未遂に終わっていたことに、捜査員は胸を撫で下ろしたとされる。
この凶悪犯罪に対し、司法は極めて厳しく臨み、最終的に犯人には死刑判決が言い渡された。社会に深い衝撃を与えたこの事件は、犯人の逮捕と処罰によって幕を閉じたが、その陰には想像を絶する動機と計画性が潜んでいたのである。
さて、ぼんやりと川越行きの快速のコーナーに座っていると赤羽を過ぎた。快速なので次の停車駅は戸田公園である。
そして戸田公園に到着。
隣の線路は東北新幹線だ。
駅前に出ると、コミュニティーバスのバス停が並んでいる。
国際興業バスの乗り場は別の所のようだ。
それでも、ほどなくして下笹目行きのバスは来るので乗り込む。
なんというか、郊外の住宅地という感じのところを走っていく。郊外といっても、千葉や埼玉のような昭和な感じのする住宅街。
そして笹目というバス停に到着。
ここで降りて、荒川方面に歩くことにする。
住宅地ではあるのだが、産廃処分場があったり、うらぶれた感じがする。
新聞の地図を見る限りでは、大体どこなのかわかるような気がするのだが、もうほとんど新築住宅に建て替わっており、面影は一切ない。
但し、近くに架かっている下町橋は、昭和43年の架橋であるというので、事件当時を知っている橋であろう。
ともかくも、戻りのバスは16時08分であるというので、急ぐことにしよう。
そして、戸田公園行きのバスの中の人となる。
戸田公園からは、16時28分の武蔵浦和行きというのがあった。
とりあえず、武蔵野線に乗りたいので、これで充分だ。
ちなみに、臨海線の車両だった。
そして、武蔵浦和で武蔵野線に乗り換える。東京行きだった。
結局、座れたのは南越谷からだった。
そして新松戸で降りて、総武流山鉄道に乗り換える。
幸谷からの乗客は結構多く、ほとんどの席が埋まった。
しかし、大体の客は、小金城趾や鰭ヶ崎で降りていく。
流山まで乗った客はほとんどいなかった。
そして終電の流山に到着。
鉄ヲタが数人いる。
噂のJR 211系を撮りたいようだった。
流山駅前は、古い町並みが広がっている。昔は中心部だったのかもしれないが、今はもはや時代に取り残された街になっている。
そして、17時48分の馬橋行きで戻ることにする。
そして鰭ヶ崎で降りる。
2020年5月6日には平和台にも降りているので、流山電鉄の各駅は小金城址を除いて全部降りたということになる。
そしてしばらく歩くと、千葉県道29号草加流山線のロードサイド地帯に出る。
どこでも良くはあったが今日はサイゼリヤで。
ここでヴィーナス児の小説アップロードしたり日記を追いつかせる。
さすがにサイゼリヤなので、子供の鳴き声が至るところから聞こえてくる。
それで20時過ぎまでいることにする。
そして南流山駅まで歩いていく。20時37分の区間快速に乗れそうだ。
結局、その区間快速は流山おおたかの森で座ることができた。
そして守谷から先はガラガラ。
そしてつくばに到着。
あとは帰るだけ。
帰宅したらスポットクーラーの除湿モードが止まっていた。タンクがいっぱいになったらしい。
湿度は67%であるという。現在のつくばの気象庁のデータでは81%なので、まあまあ吸っていると見ていいか。
後は風呂に入ることにする。
また北海道支社の生涯学習日からチャットが来た。
かれこれ20年前に南後志営業所にいた頃の付き合いで、現在でも祭りに出ているらしい。
明日はつくば発自体が7時ごろなので、さっさと寝ることにしよう。
ここまでの決死出演は2名(累計4名)。