天気晴朗という程でも

本日、東京の天気はおおむね曇りで、日中の最高気温は7度、最低気温は3度が予測されています。一時的ににわか雨が降る可能性がありますので、外出時には傘を持参することをおすすめします。また、乾燥注意報が発令されており、土曜日の午前0時まで続く見込みです。
伊豆諸島の波の高さについては、伊豆大島付近で1.0メートルから2.0メートルの波が予測されています。海上では風が強まる可能性があるため、海のレジャーや船舶の航行を予定されている方は十分に注意してください。

7時過ぎに目が覚める。
妹はもう起きていた。

テレビではブラタモリをやっている。
今日は東海道五十三次と東海道五十七次が分かれる所から。
ナレーターはあいみょん(西宮出身)。

朝食はご飯・煮染め・ブリ・豆腐の味噌汁。
妹はさっさと出勤してしまった。

乃公おれも8時早々の準急で出ることにする。
東大和市で席が埋まったが、小平で先発の急行に流れてまたガラガラ。

どうも腹が痛くてトイレに行きたいのだが、竹芝のソフバン本社のタリーズまで持ち堪えれるかな。

結局、座席の脇に物を置ける程度にはずっとガラガラだった。
これも三が日だからだろう。

そして高田馬場で山手線に乗り換え。
山手線も座れる程度。

しかし腹の痛さが亢進してきたとても耐えられない。
高輪GWだったらトイレは綺麗だろうか。
しかしそこまで持ち堪えるのは無理だ。

ということで原宿で下車してトイレへ。
ここも駅舎自体は新しい。

そしてトイレを出て改めて山手線内回りの中の人となる。
そして浜松町駅で降りる。
浜松町駅は小便小僧や納税推進の標柱とか映えスポットが多いのでにしこくん仕事

そしていつものソフバン本社のタリーズ・・・と思ったら、正月でしまってやがる。
結局はオフィスビルなのでそうなっているらしい。

仕方がないので竹芝桟橋に近い所のMORIVA COFFEEに。
ここでカフェインレスコーヒーを頼むが、なんとドリッパーごと来るという本格的なもの。
ここでSNS周りをやってしまう。

ところで、韓国では尹鈴悦大統領に逮捕状が出たと。
日本以上によほ三権分立が機能しているのではないだろうか。
日本が法治主義だなんだと言ってるのは、それが都合よく機能する時ばかりだ。

そんなことをやっていたら、10時半も過ぎてしまったので、竹芝桟橋に行くことにしよう。

途中、いつものファミリーマートでパリパリサラダとカップうどんを買うことにする。
何やら高級感のあるカップうどんだ。

そして、竹芝桟橋でチケットを交換する。
451-13。下の段という事はそれほど混んでもいないのだろう。後で上段に取り替えてもらうことにしよう。

ところで、島に住んで結構経つので、竹芝桟橋でおが丸を待っていると知ってる人と会ったりするものだが、今回はいないようだ。

また、乗船はもう部屋別にはなっていない。
よほど人が少ないのだろう。

そして乗り込んで、荷物をベッドに置いて7階デッキへ。
乗る人も見送る人も少なく、寂しい船出だ。

東京湾で電波が通じるうちに、アップするものをアップしてしまおう。

そして、Instagramのアカウントであるが、失恋したときに衝動的に作成したアカウントは、芸能人のInstagramを眺める専用の垢にすることにしよう。

そして、12時も近づいたので、昼食の準備をすることにしよう。
そして4階のベッドに戻り、まずは最後のミサメグ以外のメンを洗いに出す。

そして、うどんにお湯を入れるのだが、よほどこだわっているようで、なんと時間は8分であると言う。
これは、7階の給湯室で入れてから7階のラウンジに戻る。

7階のラウンジに戻ったら、手話サークルで一緒の人がいた。

ともかくも、パリパリサラダとうどんを食べてしまうことにしよう。
そして、東京湾にいて波がなく、電波が通じているうちは7階のラウンジでゆっくりネットでも見ていることにしよう。
電波が途切れたら、ベッドに戻ることにしよう。

正月の三箇日に販売してこないので、古川ロッパや入江相政などの日記を読んでいる。
古川ロッパは芸人であるだけに、正月が公演で忙しかったようだ。
また、入江相政は毎年一般参賀・歌会初めなど皇室行事で忙しかったようだ。

ところで、また、北海道支社の生涯学習ニキからチャットが来た。
北海道支社内では既に人事が薄々と出たようで、なかなか厳しい人事もある。
管理職クラスになると、やはり露骨に実力を問われるものだ。

そう思ったら、窓の向こうに、小さな漁船が集まっているではないか。
まるで小笠原の見送り船のように。
ついにしこくん仕事をしてしまった。

そろそろ東京湾も出そうなので、ベッドに戻ろうか。

最後に、ミサメグで決死をして内地の見納めとすることにしたい。

既に房総半島も出ようとしている。
電波もここで終わりだろう。

後は戻ることとしたい。

その前に、充電するだけしてから戻ることにしよう。
あと、胃の中にものが入っているときに寝るというのはなるべく避けたいところ。

それでiPadに充電をするのだが、28Wなんて初めて記録した数字だ。
iphone13を充電していた頃は、多くても6か7ぐらいだったのだが。
USBのタイプCが1番良いということだろうか。

14時半過ぎ、ベッドに戻ることにする。
ちなみに、上段に変えてもらった。

7階ラウンジにいた時に、引き続き百鬼園先生の日記を読んでいる。
あと、荷風の日記にもチャレンジしてみようか。荷風全集の抄録ではないやつ。
昭和2年は荷風は数え年49歳だったようだ。
しかし書いていることが難しくてしょうがない。そして長い。
今のように音声入力どころか、パソコンなんてなかったような時代だろうから、一体1日の間でどのくらいの時間を日記に費やしていたものやら。

メンは洗ってベッドで干している。
こちらはもう寝たい時に寝ることにしよう。

そう思ったら、船内アナウンスがかかる。
1月5日に公園でBONIN ISLAND JAZZが開かれるのだが、演奏するバンドがこの船に乗っているようで、4階レストランで15時半から演奏を行うという。

せっかくだから行ってみることにしよう。
そしたら、結構な人は集まっているが、前に詰めろという。
めんどくさい…。

だんだん船が揺れてきた。外海に出たのだ。

レストランの中は満員になり、ライブが始まる。

正直、ジャズというものには大して興味がなく、どんな退屈なライブが何時間ぐらい続くのか、かといって途中で席を立つのもなんだか申し訳ないし、来て良かったのかどうかと思ったのだが、前振りで「60日に1回のかのえさるの日は、何かの虫が閻魔様に罪業を報告しに行くのだそうで、それを引き止めるために一晩中飲めや歌えの騒ぎをするのは庚申塔でどうたらという話を聞いて、それから着想した曲」というのをやるのだそうで、そういう背景を聞くと、なかなか興味深く聞けた。

また、コロナでライブができなかったが、そこから「パンデミック・ラブ」という曲を着想したのだそうで、これも興味深く聞くことができた。

ただひたすら自分の興味のある恋やら愛やらを自分だけ楽しそうに弾いてるだけでは、人口に膾炙などできないだろう。おそらく退屈して帰っていたかもしれない。
これは、何か創作したいと思ったときに、良い示唆になるだろう。

そんなことを考えながらベッドに戻り、パソコンに入れている昔の日記を読む。
昔の日記は2003年位から、自宅サーバーをやっていた頃につけていたので、おがさわら丸の中でもオフラインで読めるのである。
本当ならば、こうして昔の日記を、願わくば1998年に初めてデジカメを買った時から、ブログとして読めれば良いのだが、そういうブログもやってみたいところだが、現時点で既にあまりにも手を広げすぎなのだ。

ただ、そういうブログをやるとすれば、昭和史ブログであれば、知り合いに見られても構わないように作ってあるし、そこを生かすという手もある。
ただし、なにぶんにももう25年以上という蓄積があるので、それを1つにまとめるというのは、かなり骨が折れそうな気がする。

もし、この1998年以降の絵日記をやるとしたら、今にしこくんブログでやっている「備考・愚痴・言い訳」は発展的解消ということになるだろう。

そんなことを考えながら、腹を減らして寝転がっている。
腹が減っても、3度の食事以外は何も口にするまい。
腹が減ったら寝るだけだ。

そう思ったら、既に18時が近づこうとしていたので、4階のレストランで夕食としたい。

行ってみると、全然並んでいない。
乗船客数193人とはこういう世界なのか。

そして夕食はきつねうどん・サラダ・納豆。
タンパク質は純然と大豆で摂る。
これでエネルギーが尽きてしまったら、後は寝るだけ。

しばらく、ロビーで日記でもつけていることにしよう。
ところで、18時半ぐらいなのだが、八丈島のあたりを航行しているのだが、すぐに電波を取るのだ。
IPhone13の頃にはそのようなわけにもいかなかった。
やはりこの辺りは、iPhone16のなせる技だろうか。

ちなみに、そこで入ってきた情報によれば、箱根駅伝は青山学院大学が2年連続の総合優勝であるという。

12時ぐらいに洗いに出したメンが乾いているかどうかチェックしたら、まだ乾いていない。そんなもんだろうか。
仕方がないので、イロハシャッフルは明日の朝ということにしたい。

いつの間にか電波が入りにくくなったと思ったら、八丈島を過ぎてしまったようだ。
19時半ごろ、ベッドに戻ることにする。

ベッドの中では、引き続き永井荷風の日記を読んでいるのだが、昭和2年1月6日には「銀座に行こうと思って箪笥町の崖下を通っていたら小学生のグループが私の名前を呼んでふざけている。まるで狂人や乞食を見て笑っているかのように。そもそもなんでこんな子供たちが私の名前を知っているのか。作家としての私の知名度以外の何があるだろう。ある事ない事噂されてたまったものではない。雑誌の記者が私のことをめちゃくちゃに書くのに関しては読まなければ済む話だが、近所の子供たちが私を見て笑うことは避けることができない。最近の子供達の凶暴さは見るに耐えない。私の小石川の子供時代は、作家先生と会うことがあったが、文字を知らない頃でも、あまりのオーラに首を垂れて道端に直立するしかなかった。それだというのに、今の子供は何なんだ」
荷風もこうしたことで悩んでいたようだ。
多分、こういうのは、親が吹き込むのではないだろうか。「あそこに住んでる作家の先生はこんなことをした」など。
東京の街中ですらこの調子なのだから、岩手の山奥なんてもっとひどくて、石川啄木など「故郷の草木は私の友達だが、人々は私の敵だ。彼らには詩がない」などと今でいうマイルドヤンキー的な地元民に対する憎悪を隠していない。

翻って、今後の拙ブログと、特ににしこくんブログの運営方法をどのようにやっていこうか。
にしこくんブログの「備考・愚痴・言い訳」は唐沢俊一の裏モノ日記がそのように評されたように「都市文学」としての体裁を成していきたい。
ところで「都市文学」というのは、1つのジャンルとして成り立っているのだろうか。chatGPTにそのように要約してと言えば、ちゃんとやってくれるだろうか。
今はおがさわら丸の中なので調べようもないが、着いたらちょっと調べてみよう。

もっとも、よし「都市文学」などというジャンルがないとしても、たとえば池波正太郎の小説が「食」に関する描写を徹底していたのと同じように、地理に関する描写を徹底するというのも1つの形式ではあろう。

22時が近くなり、夜間消灯するという。
そろそろ麺も乾いてきた頃だろう。
イロハシャッフルをすることにする。

ここから先しばらくは、この陣容で決死していくことにしたい。

あとは、流れ的に寝てしまうことにしたい。

少しでも眠くなるように、引き続き荷風の日記を読んでいるのだが、これまであまりにも難しいだろうからと敬遠していたのだが、読んでみれば意外に読みやすい。
大正8年の最初から読んでいるが、ものの2時間弱で読み終えることができた。
大正9年に入ると、スペイン風邪に感染し40度の熱を出し、いよいよのことを考え、遺言まで書いたようだが、幸いに熱が下がったようだ。
大正10年8月に至っては、気温が華氏90度などと書いている。この時期は華氏で表すのが普通だったんだろうか。
ちなみにiPadの万能電卓で換算したところ、華氏90度とは、摂氏32.2度であるという。

23時も過ぎたし、眠くなっても良さそうなものを、全然眠れない。何も食べていないと却ってそうなのか。
昨日もそうだった。空腹から逃れる唯一の方法は睡眠だと思っているのだが。

眠くならないので、引き続き荷風の日記を読んでいるのだが、大正11年7月7日になると与謝野鉄幹から電話が掛かってきて「森鴎外先生が危篤である」と。
翌7月8日に団子坂にある森鴎外の屋敷に行くと受付まで出ている。
その翌日の7月9日には「午前7時頃、纊を属せらる」と書いている。
亡くなったことをそのように表現するのか。

読んでるうちに寝入ってしまった。

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