DMV収鋲

北朝鮮KCTV「光明星節慶祝平壌市産業美術展示会開幕」より🇰🇵
2月の名節も近づいており、それを記念した産業美術展示会というが、日本語だと「工業デザイン」というニュアンスだろうか。
これは消毒ロボットだという。

これは太陽電池を電源にした雪かき機の図案だという。
北朝鮮は意外に太陽発電好き。
その理由は「発電場所と消費地を近接させることができるから」なのだという。
太陽光発電の活路は、ソーラーファーム以上に、こういった所にあるのかもしれない。

バスの車内で目が覚めたらまだ暗かった。
iPhoneのGoogle Mapで位置を確認すると、まだ淡路島だった。
もう一眠りしよう。

そして起きた頃には徳島駅を過ぎていた。
それでも、バスの車内の表示には「徳島駅前」と書いてある。
明らかにバスは徳島駅を過ぎて小松島へ向かっている。

降車ボタンを押すことにした。

そして高速バスの小松島のバス停に到着。
バスを降りると、雨が降っている。

四国は高速バスが発達しており、バスターミナルも発達していると言うが、この小松島の場合はバス停が立っているだけで、駅のベンチも全くないと言う状態である。
これで東京行きの高速バスに乗れと言うのはなかなか辛い。
いずれにしても、この小松島バス停を持って、徳島県小松島市は収鋲としたい。(収鋲率:徳島県54.2%、全国51.2%)

さて、海部方面の列車にはまだまだ時間があるのだ。

ちょっとここで1つ、ダークツーリズムを入れることにしよう。
どのような事件かというと、昭和29年に発生した警察官の妻による警察官の偽装殺人である。

しかし、それに際する新聞を用意していなかった。
このブログのダークツーリズム史上初めて、新聞は後から入れるという形式にすることとする。
(結局2025年6月7日にChatGPTの力を借りて入れることにする)

昭和29年4月27日、小松島市で起きた事件が同日夕刊の徳島新聞で初めて報じられた。朝6時ごろ、小松島市内の市営住宅から2発の銃声が響き、25歳の妻が叫び声を上げて外へ逃げ出した。発砲音の直後、近所の住人が駆けつけたところ、家の中では27歳の小松島市警察署所属の巡査が後頭部を撃たれて倒れており、その場で死亡が確認された。

警察はただちに現場検証を行い、巡査の勤務先でもある小松島市警察署では妻に対する事情聴取を実施したが、当初は詳細な状況が明らかにはならなかった。

妻の証言によれば、朝6時ごろにトイレに立ったわずかな隙に、それまで新聞を読んでいた夫が突然ピストルを発砲したという。彼女は咄嗟に逃げ出したが、すでに夫は息絶えていたと語っている。

この夫婦は昭和27年に結婚したばかりで、事件の直前である3月に現在の市営住宅へ引っ越してきたばかりだった。近隣との交流はほとんどなかったとされる。警察署の関係者は、巡査が職場では温厚で誠実な人柄として知られており、信頼も厚かったことから、「家庭内で何か悩みを抱えていたのではないか」と語っていた。

昭和29年4月28日の徳島新聞朝刊では、小松島市で起きた巡査銃撃事件についての続報が掲載された。国警徳島県本部監視課と徳島大学医学部による科学的捜査が進められ、いくつかの重要な事実が明らかとなった。

まず現場の状況について、発射された2発のうち1発が畳の上に左側から打ち込まれていたことが確認され、これが自然な自殺の姿勢とは矛盾するのではないかと指摘された。また、発砲の瞬間に妻が現場に不在であったこと、そして遺書が残されていなかったことも判明した。

徳島大学医学部による検死では、拳銃が頭部から2〜3尺(約60〜90センチ)離れた位置から発射されたと推定され、さらに弾丸が下方に対してほぼ直角に貫通していたことが分かった。これらの所見も、自殺にしては不自然な要素を含んでいると考えられた。

さらに、事件前夜には同僚の巡査が訪れており、夫婦と共に将棋を楽しむなど穏やかな時間を過ごしていたことも確認された。その晩の様子には特に変わった点は見られなかったという。

警察は、被害者である巡査の右手および妻の手に対して発砲時に付着する硝煙成分のガス検査を行ったが、明確な反応は得られなかった。このため、妻が着ていた衣服についても追加の検査を行う方針が示された。

また、近隣からの聞き取りなどを通じて、被害者の妻が結婚前に奈良市内の男と親しくしていたという話が浮上し、実際にその男が1月に妻に会いに来たことがあったという情報が寄せられた。この出来事を夫が知って以降、夫婦の間には口論が絶えなかったとも噂されており、そうした家庭内の葛藤が引き金となって、夫が自ら命を絶ったのではないかという見方も一部では語られていた。

昭和29年4月28日付の徳島新聞夕刊では、前日に発生した小松島市の巡査銃撃事件に関し、すでに妻に対する疑惑が強く向けられていることが明確に報じられていた。記事によれば、妻が着ていたセーターから硝煙反応が検出され、とりわけ左腕よりも右腕のほうに強く反応があったとされている。この結果を受け、警察は28日早朝にいったん帰宅させていた妻を再び呼び戻し、改めて厳しい取り調べを行っているという。

それでも妻は一貫して「便所に行っていたので、何も知らない」と主張し、その態度を崩していないという。

また、この日の午前11時からは、被害者である巡査の葬儀が執り行われ、取り調べ中の妻も警察の付き添いのもとで参列を許された。葬儀が終わった後には、再び警察に戻され、取り調べが継続されたという。

報道では、この妻の素性についても触れられており、小松島市ではなく、勝浦川を越えた徳島市勝占町の出身であること、そしてかつて奈良県など各地を転々としながら、恋の噂を立てるような暮らしをしていたといった過去までもが紹介されている。

それにしても、まだ容疑の段階に過ぎない人物について、ここまで踏み込んだ内容を公然と新聞紙面で報じるとは、昭和という時代がいかに苛烈であったかを物語っている。

昭和29年4月29日の徳島新聞では、小松島市で発生した巡査銃撃事件について、ついに妻が逮捕され、事件は解決へと向かったことが報じられた。報道によれば、科学捜査の進展によって物的証拠が示され、それに抗しきれなくなった妻が犯行を自供したものと見られている。

小松島市警察署では、自供の詳細については明らかにしていないものの、事件当日の4月27日未明、午前4時ごろに夫婦間で口論が起き、その発端がまたも妻の男関係に関するものであったと推測されていた。そしてその果てに、妻が夫の拳銃を取り出し、発砲に及んだのではないかと見られている。また、一部では無理心中を図ろうとした可能性もあるとの見方も示された。

逮捕の決め手となったのは、やはり妻が着ていたセーターから検出された硝煙反応であった。とりわけ右腕部分の反応が強く、警察の疑念を裏付けるものとなった。

事件を受けて、妻の母親は「うちの子は絶対に潔白です。旦那さんにもいろいろと悩みがあったので、それで自殺したのでは」と語り、なおも娘の無実を訴えた。一方で、被害者の父は「まさかという思いです。まさか妻が犯人だったとは。あの子がかわいそうだ」と語り、衝撃と困惑を隠せない様子であった。

昭和29年4月29日の徳島新聞夕刊は、もはや新聞というより週刊誌の様相を呈していた。事件の扱いは一層センセーショナルなものとなり、記事では、今回の発砲が無理心中ではなく、夫婦喧嘩の末に妻が夫を拳銃で射殺したものであるとはっきり報じられている。

妻の供述によれば、事件当日の早朝4時ごろ、彼女はぐっすりと眠っていたところを夫に起こされ、まだ眠気が強く、まともに取り合おうとしなかったという。夫は妻の過去の交際相手についてくどくどと責め立て、ついには口論に発展し、彼女は夫から殴られたと述べている。腹を立てた妻はタンスの中から拳銃を取り出し、「撃つわよ」と脅したが、夫はそれを本気にせず、「危ないからやめろ」と軽くいなした。しかし妻は、弾は入っていないと思い込んで引き金を引いたところ、銃声が響き、夫はその場でぐったりとなったという。

だが警察は、この供述を額面通りに受け取ってはおらず、犯行が計画的なものか、あるいは過失によるものかを慎重に見極めようとしていた。とくに同僚の証言によれば、被害者である巡査は拳銃に常時弾を込めておくことはなく、通常は帯革の玉入れに弾丸を収納していたという。それゆえ、誰が拳銃に弾を装填したのかという点についても疑問が残っている。

また記事では、犯行後も悪びれる様子のなかった妻の態度について、「現代人の表徴人格か、あるいは二重人格か」といった精神分析めいた考察も盛り込まれていた。妻は自白後も落ち着き払っていたとされ、近所の人々の間でも「朗らかでべっぴんさんだった。大抵の男は一目惚れするだろう」といった評価があったという。幼い頃から歌や踊りが好きで、地元の素人演芸会によく出演し、周囲から甘やかされて育ったとの話も伝えられている。

それにもかかわらず、報道に添えられた写真では妻が顔を隠しており、まったく罪悪感がないわけでもないのではないか――そんな一抹の迷いを記者はにじませていた。昭和という時代のメディアが、事件をどう見せ、どう消費していたのかが露骨に現れた紙面であった。

昭和29年4月30日付の徳島新聞夕刊には、殺人事件の被害者と加害者となった若い夫婦の、まだ穏やかだった頃の写真が掲載された。記者は、ひとつの家庭が悲劇に至るまでの経緯をたどるように、その背景を詳しく伝えている。

記事では、犯人として逮捕された妻の浮気相手の存在にも踏み込み、その人物が今回の事件に何らかの関与をしていたのではないかという疑いも伝えられた。浮気相手の男はもともと奈良県に住んでいたが、事件当時は島根県江津市に滞在していたようで、警察はすでに現地への捜査員派遣を決定したという。そしてその事実までもが紙面で報じられるというのが、まさに昭和という時代を象徴する報道のあり方であった。

また、妻の供述も変化していた。当初は「拳銃に弾が入っていないと思い込んで引き金を引いてしまった」という偶発的な発砲を装っていたが、警察が計画性のある犯行として追及すると、供述の内容は徐々に変わり、より能動的な意思による発砲であったことを認め始めたという。

さらに記者は、夫婦の過去を時系列で明かしている。昭和28年12月30日、妻の浮気相手が三重県から妻の実家を訪ねてきたという知らせを受け、妻は夫に断りなく実家に戻って年末を過ごした。年が明けた昭和29年の元旦には、奈良の親戚宅を訪れ、1月8日、松の内が明けた日に大阪港で浮気相手と再会。そのとき、妻は相手に「あなたが幸せになるまで私は結婚しない」と語ったとされている。

その頃、小松島では、夫は一人で寂しさに耐えながら新居への引っ越しを終え、妻の帰宅を待っていたという。やがて妻が戻った際には、逆に離婚を切り出され、心を乱されたとみられている。

妻の実家も当初は警察官である夫との結婚を望んでいたが、最終的には浮気相手との関係に終止符を打たせようとし、姉が「相手の男は料理屋の女中を妊娠させたので結婚せざるを得ない」という偽りの手紙を書き、別れを促したとも伝えられている。

そして事件後の現場検証では、近隣住民や見物人が黒山のように押しかけ、野次馬であふれ返った。「美貌の夫殺し」として噂になった妻の姿を一目見ようと集まったものの、予想に反してその姿を見ることができず、がっかりした様子だったという。昭和の時代、人々の好奇心と報道の熱気が、悲劇すらも見世物のように扱っていたことがうかがえる記事内容であった。

昭和29年5月1日付の徳島新聞夕刊では、小松島市で発生した巡査殺害事件の続報として、ついに妻の浮気相手が登場した。紀伊半島の山間部から島根県へ木材の買い付けに出向いていた最中、自身の不倫相手が徳島で殺人事件を起こしたことにより、本人も捜査のため徳島へ連行される羽目になったという。その道中の迷惑ぶりを思えば、本人にとってはたまったものではなかったろう。

報道によれば、この浮気相手の身体的特徴は当時の表記で記されており、身長5尺6寸(約170センチ)、体重12〜3貫(約45〜49キロ)とのことであった。

また、事件をめぐっては複数の手紙が見つかっている。妻から浮気相手に宛てた手紙には「これからは夫との結婚を続けていかなければならないので、あなたは私の幸せを祈ってほしい」と書かれており、一方、夫から浮気相手への手紙には「妻とあなたの関係は理解しているが、一旦結婚した以上、別れるわけにはいかない。諦めてくれ」との言葉が綴られていたとされる。

このやりとりについて、徳島地方検察庁の次席検事は、「こうした手紙の存在がある以上、浮気相手が無関係だなどという甘い見方はしない」と強い姿勢を示し、取り調べに臨んでいる様子が伝えられた。

ちなみに、同じ紙面では、のちに「死後再審」で有名になることとなる「徳島ラジオ商殺し」に関しても報じられており、この時点ではまったく別の人物が被疑者として逮捕されていたことが記されていた。そしてそれもまた遠慮なく新聞に大きく取り上げられていた。結局のところ、その被疑者は誤認逮捕で釈放されたはずだが、当時の徳島新聞がその報道の責任をどこまで負ったのかは疑問が残る。昭和という時代の報道のあり方が、ここでも垣間見える内容である。

ともかくも、事件は小松島市中田字沢里の市営住宅で発生したのだという。

高速バスのバス停から、2キロ近く歩いて行くことにする。
途中、コンビニもあったが、どうも朝食を食べる気になれない。
それでもどうにか、イートインでヨーグルトを食べる位はした。

さて、現場に向かうことにしよう。

牟岐線の踏切を渡ると、明らかに鉄道線路であったと思われる自転車道を横切ることになる。
工場の専用線でもあったのだろうか。

それはともかく、件の市営住宅に行くことにしたい。
しかしそもそも、その市営住宅が該当かどうかと言うのは不明なのだ。
何しろ「沢里」と言う地名が、現在の小松島市にはない。

それでも、おそらくは農地関係の役所資料に「小松島市小松島町沢里」と言う地名を見ることができた。
つまり、小松島町と中田町の境界付近にあるとみて良いだろう。

小松島市のホームページを見る限り、そこに該当する市営住宅は1カ所しかないのだ。

確かに、そこには古めかしい住宅があった。
おそらくは、事件当時もこの建物だったのではないかと言うような家である。

ちょっと、これ以上詳しく撮るのは差し支えがあるような気がしてきた。

そして、中田の駅へ向かうことにする。
雨足はどんどん強くなっていく。

緩やかにカーブした道を、中田の駅に向かって歩くと、まるで中田の駅から分岐したようになっている。
つまり、さっき渡った道も、この道も昔の小松島線だったのだ。

そして中田駅に到着。
ここには、JR四国にありがちな出入り口付近の余計なファザードは無い。
そして、完全無人化もしていないようである。

そして、8時12分の阿南ゆきが来たのでそれに乗ることにする。

そして8時36分に阿南駅に到着する。
9時に阿南市立図書館が開くはずなので、そこで、さっきのダークツーリズムに関する資料を集めることにしよう。

中途半端な時間タイムラグがあるので、その間は教場駅舎止まった駅舎で待合室にすることにするが、風が通るので寒い。
これじゃ風邪引きそうだ。

そして、雨の中を図書館に向けて歩くと、図書館が閉まっている。
去年の4月12日から、図書館は閉まっているんだそうだ。
これではどうにもならない。

結局、風の吹き抜ける待合室で待っているしかない。
そんな風が吹き抜ける駅ではあるが、直営駅のようなので、阿波海南までの往復10分をここで買っておくことにする。
クレジットカードが使えるのだ。

そして10時21分、阿波海南行きに乗ることにする。

1時間以上列車に揺られて阿波海南に到着。

本来、牟岐線は海部まで通っていたところ、阿佐海岸鉄道がDMVになると同時に、牟岐線はこの阿波海南で切られてしまったのだ。
今では線路すらつながっていない。

そして、阿波海南の事実上の駅舎となっている「駅前交流館」があるのだが、ここもコロナ対策でかドアを開け放っている。
だから寒い。

さて、ちょうど昼食の時間となったので、どこかで食べたいが、何か買えそうな店は駅前のローソンしかない。
ここでおにぎりを買って食べる程度。

12時21分になると、甲浦方面からのDMVがやってくる。
その鉄道からバスへのモードチェンジの様子を決死撮影することにする。

このDMVが海南文化交流館へ行くと、その折り返しのバスが宍喰温泉行きになることになる。

12時36分、その宍喰温泉行きのDMVが来た。

バスはまず、道路から線路にモードチェンジすることになる。
増田タイヤの幅と同じフィーダー線路の上に入り、鉄道サリンを出す。

その間、車内では〽️ポンコポンコポンコポンコ(ソレ)と祭り囃子のような何かが入る。
なるほど、ローカル色があっていいかもしれない。

そして鉄道線路に乗ったバスは、1軸台車特有のたんたんたんたん…と言うジョイント音を響かせながら甲浦を目指す。

海部では、かつての阿佐海岸鉄道のディーゼルカーが保存されていた。
帰りは宍喰で途中下車する予定だったが、海部のほうがよかったかもしれない。

海部から宍喰の間は、結構時間がかかる。

宍喰は特に何もなく。

宍喰の車庫にもディーゼルカーが保存されていたが、こちらも線路がつながっていないようだった。
DMVの整備はどこでやるんだろうか。

まぁそれはともかくとして、途中下車は宍喰ではなく海部にすることにしよう。

そして甲浦でまたモードチェンジをして、道路を走ることに。
ここから先、また徳島県に戻って、道の駅宍喰温泉まで行くことになる。
ここから宍喰駅は歩こうと思えば歩けるのだ。
なんだってこういうルートにしたのやら…

それはともかく、道の駅宍喰温泉に到着。

ここで温泉に入ることにする。
最近は、温泉法が変わった影響で、水さえ湧いていれば、「温泉」と名乗ることができるようだ。

ここで、昨日入っていなかった分汗を流すことにする。

そして、折り返しの14時44分のDMVが発車する時刻まで、ゼロコーラでも飲みながら休憩することにする。

そして、帰りのDMVは、予定変更した通り海部で降りることにする。
この15分ぐらい後に、続行運転で次のDMVが来るのだ。

このような続行運転は、ちょっと途中下車したい場合非常に便利でありがたい。

果たして、海部で降りると、かなり雨足が強くなっていた。
そんな中で、撮影するアングルを確認することにする。
決死撮影と、にしこくん撮影をしなければいけないのでせわしない。

果たして、隣で保存されているディーゼルカーと続行で来るDMVの大きさを比較するようなアングルで撮ることができたのでよかった。

続行の車に乗り、阿波海南駅に到着し、そのまま終点の海南文化村まで行くことにする。

阿波海南文化村に到着し、10分と犯す折り返しが出るのだが、その折り返しは別の車両であった。
つまり、常時3台のDMVがどこかしらを走っていると言うことである。

1個列車を単純往復させていれば、1番効率が良いのではないかと思うのは、鉄道に毒されすぎているのだろうか。

兎も角も、その折り返しの赤いDMVで阿波海南駅に到着する。
牟岐線のホームでは、すでに徳島行きが待っている。
さらばDMV。

雨が降っている中、上着を乾かしながらなるべく暖房の効いている真ん中のほうの席に陣取る。
そしたら、鉄道関係の知り合いがいた。
DMVに乗っていたのだそうで、自分が海部駅で決死したのも見られたのだろうか。

それはともかく、社内で、ブログつけなどできる事はすることにしたい。
それでも、ブログつけのほうはさしてはかどらなかった。

そして阿南に到着。

阿南に到着したのは、17時過ぎであったが、夕食までに時間を潰すところが思い付かないので、駅前にあった適当な居酒屋に入ることにする。

ここでハイボールを飲みつつ、いろいろ食べることにする。
結局5000円以上使ってしまった。
居酒屋で大食いなんてするもんじゃない。

その後、コメダに行ってブログをつけることにする。

そして、東京行きのバスの21時20分が近づいたので、阿南駅の裏に行くことにする。

果たして、出発までは20分ぐらいあったが、すでにバスが来ていた。

バスは一路東京を目指す。

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