思い出供養:もしあの頃、理想の女性が目の前に現れてたら?

世の中には想像を絶するような造形力の人もいるものである。
特に髪の表現が凄い。
ドールの髪と言えば、スケールが小さくなればなるほど、あからさまに「人形っぽさ」が出てしまうものだ。例えばリカちゃん人形のように。
ところがこの方は、髪の毛の太さまで1/6にしてるのか?と思うほど精細に髪のふんわり感や小顔感を表現している。
まるで美容院から出てきた女子大生のように。

御本人曰く「僕はただ塗っただけ」とな。

そりゃイチローが「ただバットを振っただけ」、大谷が「ただ投げただけ」と言うようなものだろう。

イチローはどんな時でも、素振りができるようにバットを近くに置いていたのだという。つまり、努力することが一切苦になっていなかったということだ。練習がつらいなどと泣き言を言っている凡人と決定的に違うのは、このような所であろう。
天才とは「持って生まれた技術」以上に、「日々の努力を一切苦痛に感じない才能」であることを痛感させられる。

ともあれ、この草莽の天才が生み出す、美容院から出てきたようなエアリーな感じのロングヘア女性をここまでリアルに表現したトルソーフィギュアを見てたら、つい自分自身の思い出を供養したくなってみた。

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amputee devotee(欠損フェチ)であるほかに、何やかやいろんなことで病みまくっていた大学生時代のこと。
街ではやれ小室哲哉だのミスチルだのパフィーだのが流れていた時代のこと。

「陰キャ」という言葉すら無かった頃、既にド陰キャだった自分にとって当時最大級の懸念だったのは、「もし、自分の好みの手足のない美人の女性が目の前に立っていたらどうする?」と言うことであった。

このフィギュアを美麗に仕上げられた かりんとうさんに拙ブログへの掲載の ご許可をいただきました。ありがとう ございます。このフィギュアはトルソー ではありますが、かりんとうさんも、 そして原型師である96(K)さんも 共に「そっち系のフェチ」ではなく、 それを示唆させる書き込みもフォロ ワーも一切無いことをお断りしてお きます。

単に「美人」ならまぁ、そこかしこにいるかもしれない。
それこそ、「浜の真砂は尽きるとも〜」だ。

しかし、そこにもう1翻付いて「手足がない」となったら、それは浜の真砂からダイヤモンドを探すような確率でしかないだろう。

そんな場面に、たとえば駅とか電車とかで期せずして立ち会ってしまったら自分はどのような挙動をとっただろう?
今、この瞬間を逃したらこの女性には二度と会えない・・・となったら?

たとえば渋谷やら原宿やらに通い慣れていて、ナンパの才覚でもあるというなら、するべき行動はそこで決まっていただろう。
しかし自分のホームタウンは悲しいかな秋葉原だ。

当時の秋葉原には「アキハバラデパート」があって、そこでカツ丼を食べていた。
そして駅の南西角に出ると、〽️確かめよう(見つけよう)素敵なサムシング…カモン! そして中央通りへ進めば〽️オノデン坊やが〜未来を遊ぶ〜 そんなCMソングまで聴こえてくる。

いや、だから、そういう思い出話はどうでもよくて、もしそんな「浜の真砂の中のダイヤモンド」が突然自分の前に出てきたらどうするのか、と言う話。

そんな女性なら、きっと自分のようなオタクなどとは全く違う世界で起居し、自分などとは全く違うキャンパスライフを送り、自分などが全く入る余地のない恵まれた友人関係や恋愛関係にあるだろう。
手足の障害なんてコミュ障に比べたら大したことないじゃん、とばかりに。

ぶっちゃけ言ってしまうと、こんな自分がそんな女性と接点を持つためにはストーカーでもしなければ無理だっただろう。
新聞沙汰になって、両親も兄弟も郷里に住めなくなるとか、そんなことになっていたかも知れない。

ま、それもこれも「実在すれば」の話だったんだけど。

幸か不幸か、大学生活の4年間を通じ、そのようなことで人を殺すか自分が死ぬかぐらいまで思い悩む機会は訪れずに済んだのだった。

そんな私的devotee史

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そんなことを考えてたら、まだ外は明るい。
ちょっと、久しぶりにあの悩み多き時代を過ごした町に行ってみようか。

久しぶりに東武野田線に乗ってみた。
今では「アーバンパークライン」なんて路線名になっている。

ちょうど退勤時刻になっており、駅は人でごった返している。
決死するには条件はよろしくない。
それでも人の流れが途絶えたところで一枚。

あの頃、駅前にはそごうがあって回転レストランがあった。
しかし今ではそれもなくなり、その代わりにビックカメラが建っている。

それに、新しく南口なんてものができている。
あの頃は眼下を走る常磐線だって真緑の103系で、なんなら千代田線に直通していた1000番台を改造した低運転台車だって走っていた。

どんな思い出があったにかかわらず、町はこうして移り変わっていく。

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…と、このようなことを書いていたら、今朝、大学の同期から久しぶりにメールが来て、先輩の訃報を知ることになった。
ここ数年末期癌で闘病されており、奥様や子供さんに見守られて亡くなられたのは、土曜日の晩であったと言う。

自分の大学生活はと言えば、上述のような苦悩に満ちたものであり、今の言葉を使うなら、メンヘラそのものだった。
先輩は、そんな自分にもよくしてくれた人だった。

思えば、ここ最近、そんな大学時代のことを思い出すことが多くなっており、7月1日には「じゃマール」で恋活してた話やら、7月3日には思い立って義肢装具士にんなろうと思い立った日の思い出を供養しに行った話やらしていたのだった。

拙ブログは、とうてい人様に見せられる様なものではないが、先輩に呼ばれたのだろうか。
謹んで先輩のご冥福をお祈りしたい。

 

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