効率的な収鋲

5月4日の北朝鮮KCTV「朝鮮の今日」🇰🇵

朝6時半ごろ起床。
部屋の中が肌寒いせいか、ちょっと熱っぽくない… まさか…?
鼻水が止まらない。
一応匂いはある。

朝食のバイキングに行くと34.7℃だと!?
体温計はちゃんと機能してるだろうか。

それでもまあ普通に食欲はあって食べた。
別にそれ以外の症状は無いのだ。

さて、出発しましょう。
空は晴れている。全行程で初めての晴れではないだろうか。
仲良しちゃんはもう待っていた。

こちらは1000円札が手元不如意なのでまた特急用の券売機で切符を買うことにする。

旭川駅の5番線ではH100の3両編成。
随分と長い編成だが仲良しちゃんは「名寄への送り込みも兼ねてるんじゃないですか?」と。

そして名寄行きは出発。
比布は現在はエセレトロ駅舎になっている。
天塩中川の方ができは良かった。

快速「なよろ」は順調に比布を過ぎ塩狩峠に差し掛かる。
仲良しちゃん曰く「JR東日本のGV-E400(ロングシート)と共通なので、ボックスシートにするとこんなにシートピッチが広がるんです」と。

そして塩狩峠のサミットを越え、塩狩に到着。
塩狩駅の後ろはすぐ山となっている。
駅舎への入り口はホーム側も道路側も一緒という、ロシアのローカル駅に多いタイプである。

駅前には小説「塩狩峠」の題材となった明治42年の列車事故と、身を挺して死傷者を防いだ鉄道職員のことが書いてある。

明治42年だというので、まだ連結器は自動連結器ではない頃である。
名寄に住んでいた鉄道員は、札幌で結婚式を挙げるために旭川行きの列車に乗っていた。
塩狩峠に差し掛かったら最後部の車両だけ連結器が外れて逆走を始めた。
鉄道員だけにブレーキハンドルを回したがそれでも止まらない。
意を決して客車から飛び降り、自ら身を挺して列車を止めたのだという。

現在、記念碑は旭川市内のキリスト教会が管理しているようである。

さて、この近くに道北バスのバス停があり、旭川〜名寄の急行線が走っている。
来たバスは道北バスのリバイバルカラーであった。

道北バスの旭川〜名寄線は途中、和寒で10分間の休憩がある。
その間にセイコーマートに寄ったりバスの写真を撮ったりする。
リバイバルカラーだけにありがたい。

そして剣淵を通過し士別へ。
道北の1000人いるかいないかのような限界町村ばかり歩いていると、人口1万7千の士別でも大都会に見える。

士別では先につくも親水公園のD51を撮るために道北自動車学校前で降りる。
そしてしばらく東へ歩き、親水公園を横切る。
途中、士別市内循環線のバス停があるが、外回りしか走っていないようである。
それでも30分おきというのは凄い。

果たしてD51を撮影。
D51は室蘭本線などを走っていたようで、別に宗谷南線の線路規格が高かかったとかではないようだ。

さて、バスで行きましょう。
行く先は5月1日にオープンしたばかりの道の駅さむらい士別。
ここで少し早いが昼食にすることに。
士別産サフォーク種のジンギスカンもあるというが時価だという。いくらか聞いたら2500円とな。
諦めて普通にハンバーグ定食を。

さて、では士別軌道のバスターミナルへ行きましょう。

道の駅から士別軌道の本社ターミナルへはさほども離れていない。

モノコックのバスは既に待機していた。
前に増して、士別軌道では明確にモノコックバスを観光資源として全面に出そうという意気が見て取れた。
昭和35年に建築されたという本社ターミナルの中はまさに昭和で、当時の時刻表や写真や車内補充券を展示しており「狙って」来ている。

朝日までの往復は1800円。
乗車券の他に士別軌道100年史のCDや絵はがきなどを付けている豪華なものである。

さて、ここから朝日に向けて出発となる。
車内は懐かしいシート、そしてエンジン音。
バスは60年前までコッペルや加藤がトコトコ走っていた線路と同じルートを登っていく。

駐在所や小学校があるレベルには規模のある上士別集落を過ぎ、また市街地が見えてくると、朝日の街並みとなる。

そして朝日に到着。軌道が走ってた頃であれば「奥士別」と言っていたようだ。
西興部や音威子府なんかと大差ないような規模の朝日の市街の中心にある朝日待合所にて。
折り返し時間は10分なので、その間に効率的に決死をしていかないといけない。

そうすると、運転手が後ろのハッチを開いてエンジンを見せてくれた。懐かしいタイミングベルトからエンジン音が聞こえてくる。
そして、3連ウィンカーも懐かしい方向表示。

士別軌道はファン向けのサービスに舵を切っているようだった。

あとは単純往復で士別駅へ戻って、13:58の旭川行きを待つ。
仲良しちゃんが「そんなに収鋲したいなら永山で降りて層雲峡行きのバスに乗れば愛別に行けますよ」と。
それは有難い。

ということで永山まで行くことに。

宗谷南線はほぼ100%に近くH100系化がなされているようだった。
そして永山に到着。

永山は旭川都市圏の駅だが、駅舎はなかなか良い駅舎である。
しかし表だけはある程度のリニューアルがなされていた。

バスは駅前の広場ではなく、少し歩いた国道39号線上にある。
ここから層雲峡行きのバスに乗る。郊外線のバスは道北バスの独断場となる。

そしてしばらく乗ったら比布町から愛別町の境界を越え、愛別橋へ。
ここが最も愛別町や愛別町役場に近い停留所となる。

愛別町といえばきのこが特産であり、バスの待合所もキノコの形となっている。
愛別町役場は、役場の玄関のフォントを見る限りでは昭和40年代に立てたと思しき建物である。

ここで愛別町は収鋲ということにしたい。これで北海道の収鋲率は50%を超えた。

愛別役場前というバス停があるので時刻を見てみると、比布経由旭川駅前行きというバスがあるようだ。
これは素晴らしい。
時間的にはどうだろう。比布に15:55に到着、宗谷線の旭川行きは16:17に出発。
これなら比布も収鋲できる!

喜び勇んでバスに乗る。

そして比布のバス停に。
道北バスの比布バス停は駅前ではなく、町役場前にあった。
なかなか良い感じの木製の待合室である。

ここからしばらく歩いて比布駅へ行くことに。
比布駅では、今でもピップエレキバンのCMに関する展示がある。
撮影されたのは昭和55年6月17日だったのだという。
顔ハメの樹木希林も若い。

実は樹木希林は2017年に比布を訪れていたのだという。
そしてその翌年の2018年に亡くなるが、その日は比布町のイベントで、一瞬だけ雨が降ったのだという。

比布からは旭川からの区間運転の折り返しに乗ることに。
いよいよもって道北収鋲は完了となる。

果たして旭川駅に到着。
17:35の空港行きバスが出るまで、しばしスタバで仲良しちゃんと語り合う。

そしてバスの期間が来た。並んでいる客を見る限りでは、なかなかの密のようだ。
それでもバスが来てみると、1人だけで座ることができた。

そして旭川空港に到着し、フードコートで蕎麦を頼む。

さあでは待っている時間に滋賀県の打鋲でもしますか… と思ったら、職場の知り合いからLINEがきた。
この人は新入社員の頃からお世話になっている人ではあるが、50の坂を越え、やたら話の長い人となってしまった。
考えてみれば初めてであったのがミレニアムの、当方は入社してまもない時期だったので、向こうは30代そこそこだったのだ。
それが今や、生涯学習大好き話好き中年となってしまった。
ただ、この人はまあ人がいいのでありがたい。

そうこうしている間に搭乗時間がやってきた。
機材はB767-300でワイドボディ機。

機内ではブログつけの下書き。

21時過ぎ、羽田着陸体制に入って関東平野に差し掛かったあたりで、突如左耳が痛くなる。
あの新幹線のトンネルで耳がツンと鳴る現象を更に重くした感じ。
欠伸をしてもつばを飲み込んでも治らない。耳の聞こえ自体はある。一体何?
これは与圧の問題か?

着陸直前、鼻をつまんで口を閉じて息を吐き出すようにしたら耳から空気が漏れて元通りになりかけた。
そういう問題か。

そしてついに羽田空港に到着。
耳ツン問題は、コーラ飲んでゲップしたりして大方の回復を見ることができた。

ところで、帰りのバスはどうしよう。
以前沿岸バス稚咲内線の葬式バスで稚内に行った時と同じ便なので、帰りのバスも同じぐらいのを考えればいいはずなのだ。
行ってみると以下の時刻があった。

・21:40 津田沼・京成津田沼行き
・21:50 西船橋・船橋行き
・22:15 津田沼・京成津田沼行き
・22:40 松戸・新松戸行き

頑張れば津田沼行きに乗れなくもなさそうだ。
ということで津田沼行きのバスの中の人となる。

そして新京成で帰宅し、「全国市町村決死収鋲」として固定ページにまとめる。

 

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