最近、エロ本がコンビニから消えたと思ったら最近は週刊ポストが「中高年男性の愛国ポルノ」を満たす存在にシフトしていた模様。
日韓関係がこれまでになく冷え込み、日韓の航空便が3分の1にまで落ち込むというニュースまで聞かれたほどである。
テレビでは東国原英夫や武田邦彦が臆面もなく韓国ヘイト発言を振りまいている。
関東大震災で多くの朝鮮人が流言飛語で虐殺されたという9月というタイミングで、である。
案の定、この週刊ポストの件も炎上し、同誌に連載していた執筆陣の中には原稿を引き上げる、小学館では仕事をしないと宣言した作家もいた。
いつだったか、都立中央図書館で、その関東大震災の時の小学生の作文を集めた本があったような気がする。
それには「朝鮮人が怖い」と言ったことが異口同音に書かれていたような気がする。
そう、この「怖い」という感情こそがヘイトを、ひいてはヘイトクライムを正当化するという、どのようなモンスターよりも恐ろしい「人間」の恐ろしさを感じさせたものであった。
今般、改めて読みに行きたいと思う。
ということで広尾の有栖川公園は都立中央図書館へ。
いみじくも、企画展は「世界中の国のこと、もっと知ろう!」であった。
(決死モデル:トルソーさんのファラキャ)
2020オリパラを機に世界中の国のことを知るのは大いに結構であるが、かれこれ100年近く前、日本で世界の国の人にどのようなことをしたのか、もっと知る便をこの図書館に求めることとしたい。
つい一昨日は横網町公園でネトウヨ団体が「六千人虐殺の濡れ衣を晴らしたい」などと集会をしていたが、どれほどの「濡れ衣」であったか、資料に当たって確かめてみたいと思う。
求めていた本は1階の「東京」コーナーにあった。
扱いとしては「郷土出版」ということになる。
平成元年に出版されたこの「朝鮮人虐殺関連児童証言史料」は、百科事典のような分厚い本である。
編者の琴秉洞氏は1927年生まれで、震災時や戦時下の在日コリアンや、従軍慰安婦についての著作をものしている方のようであった。
当時の小学生たちの震災体験をつづった文集(それも東京市内や横浜市内の数校)の中から「朝鮮人」に関して言及しているものを集めるだけでも、これだけの分量になったということである。
例えば、横浜市内の尋常小学校6年生の女子は以下のような文章を残している。
襷を掛けて勝手事に余念なかりき時であった。悪魔で踊り出したかと思わるる様な震災は天地を揺り出した。驚いて座敷へ駆け込んだ。弟はと気が付けば唯ごろごろ転がる許り、母が我が子を手許へ引寄された。今でも其の時の弟の様子は今でもまのあたり見ゆる。
私は夢中で母に縋り付いていたが、父の言葉に家を飛び出た。其時は即に遅く恐ろしい猛火はやや遠く四方に迫っていた。広場に来た人々は自分を始め皆顔色を変えていた。丸太に腰を下ろしたが、じっとしてはいられない。地は度々揺れる騒いでいる間に日は落ちた。仕合わせに自分の家は残されたが、倒れ掛かった我が家には入れず、バラックの中でうずくまった。「朝鮮人」と何人かの叫び声に目を覚ました。急いで母と一緒に彼岸へ行って見たが目に入ったのは哀れな避難者の群であった。万歳の声に向彼岸をみればこは如何に大きな朝鮮人の死体、自分も思わず万歳を叫んだ。
明治の末か大正の初めに生まれたであろうこの少女が、飛び抜けて特別な差別感覚の持ち主であったとは思えない。これが当時の日本の一般庶民の考え方だったのだろう。
「朝鮮人は怖い」そのように父母や周囲から教えられて育ったのではないだろうか。
もう少し年少であろう男子児童の手記もまたふるっている。
(片仮名文にこちらで適宜漢字や句読点を入れて読みやすくしています)
1日の夜は蚊に食われながら床に就いた。夜の空が火の粉で赤黒に染まった。2日目の朝ご飯を食べていると朝鮮人が鉄砲、爆弾、またはいろいろの武器を持って日本人を殺しに来るというのでした。我らも大きくなって国のために尽くす国民であるから、なぶり殺されないように槍または鉄砲を持って夜見る番になりました。
(中略)
朝鮮人のために身に傷一つ付けられませんでした。その自分は生きた心持ちは付かなかった。
「朝鮮人が日本人を殺しに来る」・・・そんな妄想をしなければならない程、常日頃朝鮮人を蔑視し、虐待していたのではないだろうか。平和に仲良く暮らしていれば、到底そのような発想には至らないものである。
ここで個人的な思い出を。高校にいた時、自分のことを非常に嫌っている同級生がいた。まあ俺だってたいがい変な奴だったからね(そのあたりのことは2018年4月1日のエントリも参照)。
そいつと職員室の前で目があった時、彼は非常な叫び声を上げた。
常日頃、「ぶん殴ってやる」だのそんな事を言っていたのだろう。それがいざ目が合うと、この通りの金切り声。
受験のストレスもあったのかもしれない。しかしこれは高校生活の中で忘れられないエピソードとなった。そしてまた「差別」ということに関して深く考えるきっかけともなった。
ま、そんな話はともかくとして朝鮮ヘイトである。
この震災の翌年である大正13年、東京市は「東京市立小学校震災記念文集」を出している。
庶民レベルではともかく、公式にも「流言に基づく朝鮮人の虐殺」が良い事であったと認識はされていなかったようで、「朝鮮人」に当たる部分がボカシを入れられている。
そとへ出てみました。そうしたら 青年団やへいたいさんがたくさんいました。
ぼくは、そこいらに〇〇人がいるとたいへんだといって、びくびくしながらいきました。おかあさんが「そんなにこわがらなくてもいい」といいました。そのときはたびはだしでにげました。
小学校の1年生にも「朝鮮人は怖い」という事が徹底していたのだろう。
国際感覚や人権感覚のなかった昔にどれだけの理解を求めることができるかは分からないが、ともあれこれこそが「相互不理解」のなせる業である。
理解できない人々から愛する家族を守りたい。それが自警団に入った男たちの心情ではなかったか。
そして積み重なり広く拡散された無智が大虐殺を引き起こす。
それから100年が経とうとしている今、日本の社会は成熟したであろうか。
インターネットが発達し、東日本大震災を経験してもなお、日本では流言飛語を止めることができなかった。むしろインターネットが流言飛語を広める役割を果たしてしまったではないか。
きっと日本人は、いや、人間は差別をやめることはできないだろう。自分も含めて。
しかし、常に相手を理解する努力を怠ってはならない。
「いやぁ、知らなかったもので・・・」人畜無害な笑顔でそう申し開きしてみても、失われた命が戻ってくるわけではないのだから。