太原とは仏領インドシナで最大の反植民地暴動「起義太原」(タイグェン暴動)が1917年に発生した場所でもある。
そんな太原の何を偲ぶまでもなく、朝も暗いうちから出発しなければいけない。
フロントには朝5時にタクシーを頼み、一路観朝駅へ。
タクシーでは、ものの数分で到着である。
(決死モデル:チームPみく)
着いた時は真っ暗であったが、次第に夜が明けてきた。
1日で唯一の列車は5:40発となる。
つまりそれが終電。もしかしたら「世界一早い終電」という事になるかもしれないが、世界のどこかには1日1本の列車が4時台だったり3時台だったりに発着する駅もあるかもしれない。どの時間をもって「世界一早い」「世界一遅い」にするかという話にもなる。
駅で切符を買い、ソフトシートで55,000ドン。
朝もやの中の観朝駅は、ロバート・キャパの写真のようである。
きっと、インドシナ半島の原風景はこれだったのだ。
機関車の次位の車両は窓が真ん中ぐらいにある。いかにもインドで製造しましたというような車両であり、あれは冷房なしハードシートの車両である。
ちなみに、この列車にも5人ぐらいの車掌が乗務している。本当に彼らの給与はどこから出るのだろうか。
さて、「世界一早い終電」に列せられるであろうQT2列車は定刻の5:40に龍辺に向けて出発する。
さて、件のインド製客車の車内はこのようになっている。
木のベンチシートであり、何と3×2となっている。
いくら細いベトナム人であるからと言って、メーターゲージの車両で3×2とは窮屈すぎないだろうか。
(決死モデル:チームY楼山)
ところで、始発駅の観朝駅では、表に「站運載劉舎」などと、途中駅の劉舎に何かの拠点があるような表示を出していた。
こんな1日1本の路線の途中駅に、どんな拠点があるのだろう・・・? と思っていたが、劉舎は𠄳への標準軌支線が出ている駅であり、貨車がそれなりに並んでいて賑やかであった。客車の廃車も並んでいたが、いずれも熱帯らしいオープンデッキだった。かつては抗戰挵美救渃に出征する若い越共兵士たちを運んだであろうか。
ちなみに、𠄳へはやはり2年前に満鉄客車に乗りに行ったことがある。
ちなみに、ソフトシートの車内はこのような感じで、駅ごとに乗客が増える感じであった。
車内販売も充実している。
基本的に、この路線のダイヤは、朝に太原から河内に出て、夕方に戻るというダイヤである。
効率がいいといえばいいのだろうが、ほとんどバスに食われて風前の灯火なのだろう。速度もそう早いわけでもなく、メリットと言えば安いことぐらい?
並走する道路にも車が増えてくる。
嘉林では8分の停車。
この間に、終点の龍辺で回送するための機関車をつなぐのであろう。
かつて空港のあった(今でもあるようだが、単なる空軍基地になっているようである)嘉林は、鉄道でも運行拠点となっているようであった。
また、中国の南寧からの国際列車も、ここが終点となり、客車がひるねしていた。
(決死モデル:チームY宇崎)
ここからはハノイの市街地となり、車やバイクも増える。
そして終点の龍辺に到着。
抗戰挵美救渃では何回も攻撃された龍辺橋を、今はバイクの大群が通っていく。ベトナムの朝のラッシュは壮観である。
これで一つの旅が終わった。
・・・とは言っても、まだ朝の9時なのである。
お昼前に、例の実業家さんとまた会う事になっている。
それまでの間は、朝食でもしながら適当に旧市街で待っていることにしよう。
実業家さんに、何で来るのか聞いたら「バスでハノイへ行く」と言う。
乗り物酔いが激しく、バスが大嫌いだという実業家さんに申し訳ないことをしたような気もする。
還劍湖の北側の旧市街は、外国人旅行客が多い。
それでシクロの一大拠点となっており、次々とシクロが各方面に出ていく。
(決死モデル:チームWBノノナナ)
外国人旅行客向けのお土産屋さんも所狭しと並んでおり、日本で言えば浅草や明治神宮並みの外国人密度となっていた。
そうこうしていると、実業家さんからLINEが来た。
「ホアンキエム湖の南側のショッピングセンターで待ってます」
還劍湖の北側はバスターミナルともなっていた。
とはいえ、ハノイ市内観光バスと、市内バスだけである。
長距離バスのターミナルは、嘉林など郊外にあるようで、してみれば昔の大阪のように民間事業者を市営バスの営業区間に入れない「ハノイモンロー主義」にでもなっているのであろうか。
余談ながら、今日9月20日は日本では「バスの日」となる。
果たして、実業家さんと落ち合い、タクシーで陶器で有名なハノイ郊外の鉢場へ行くことに。
陶器で有名だけに「鉢場」とはよく言ったものである。
鉢場というのは農村の中にポツンと発生したような村であったが、本当に陶器の店しかない。
中では陶芸を体験することも出来る。
日本でも女性観光客を中心に人気が出ているのだそうな。
「おみやげ物はいいですか?」と言われたが、陶器を飛行機で運んでも、割れずに持っていけるかどうかは定かではない。
その後、やはりタクシーでハノイに戻り、水上人形劇を見ることに。
「実は私は水上人形劇を見るのは初めてなのです」という。
確かに、地元の名所なんて、地元に住んでいるうちは行こうとは思わないものである。東京タワーにしても通天閣にしてもそうだった。
さて、その人形劇はと言えば、中央に水を張った舞台があり、両脇には伝統的な楽器の演奏がある。
いずれも伝統的な衣装を着ているが、女性はアオザイというわけではない。もっと中国的な衣装であった。
お客さんは外国人が多く、写真撮影は禁じられているというわけではなく、だれもかれもがバシャバシャ撮っていたので、自分も撮ることにした。
基本的には、ベトナムの伝統的な暮らしをユーモラスに演じるような感じである。
これを後ろから操るのは、相当な技巧が要りそうだ。
ベトナムは昔から、水辺の民であったのだろう。
ベトナムの古来からの文化の一端を見ることができてよかったと思う。
あとは実業家さんと夕食のフォーを食べたりお土産を買ったりして、再会を約して解散することに。
「日本に来てくださいね」と言うと、「どうでしょうねえ・・・」という。
・・・とは言っても、空港から1kmぐらいは歩いたのではないだろうか。
「Airport hotel」と言う割にはボロいホテルで寝ることに。