2026年1月25日(日)のつくば市の天気予報を詳しく、順序立てて説明します。情報は日本の気象予報サイトなどをもとにしています。
今日は朝から夜までおおむね晴れまたは晴れに近い空が続く予想です。朝は雲が少しある時間帯もありますが、日中は晴れの時間が多くなり、夜も基本的には雲少なめの状態が続くでしょう。雨や雪の心配はほぼありません。
最低気温は朝の冷え込みで氷点下付近(–5℃前後)まで下がる予想です。体感としてはかなり冷たく、朝の外出時にはしっかりとした防寒が必要です。日中は気温が上がり、最高気温は7℃前後まで上がりますが、冬の寒さは続きます。
湿度については、季節的に冬の空気は乾燥しやすいですが、つくば市では今日の湿度は朝の時間帯でやや高め(60〜70%台)となり、日中は30〜50%台まで低下する時間帯が多いです。夜にかけて再び湿度が上がっていきます。このように一日の中で湿度が上下する傾向がみられます。
風は北〜北西の冷たい風が吹く時間帯があり、体感温度は実際の気温よりもさらに低く感じられる可能性があります。
まとめると、今日のつくば市は晴れ中心の冬らしい天気で、冷え込みと乾燥が強い一日です。特に朝晩はかなり冷えるため、外出時は防寒対策と乾燥対策をしっかりしておくとよいでしょう。
目が覚めたら7時半ぐらいだった。
まずは、note小説の第563話をアップする。
まだお題は降りてきていない。
そして、SNS周りもやってしまおうかと思ったが、意外に難しい。
さて、今日はつくば市の北側方面を散歩がてらダークツーリズムに行くことにしたい。
そのためには、10時50分の区間快速に乗りたいところだが、水海道で決死もやりたいので、1本早い10時20分で行くことにしたい。
それで、まずは巉嶼で408号線を北上。
剣道取手筑波線との交差点にある。すき家で朝食。大盛りの必要はないと思うのだが。
そしてつくば駅へ。
ミスタードーナツで電源を取りながら、しばしゆっくりするのであれば、本当にすき家で大盛りは要らなかった。
しかし、そんな暇もなく、10時20分が近づいたので、乗ることにしよう。
では、今回ダークツーリズムに行く事件がどのような事件かを、茨城新聞から読み解くことにしたい。
(要約はGeminiにて)

昭和33年4月7日の午後2時50分頃、春休みも終わろうとする静かな午後の町に衝撃が走りました。第一発見者は、被害女性と交際していた男性の小学5年生になる次女でした。豊里町今鹿島の自宅から大穂町吉沼にある女性の家へ遊びに行った少女は、そこで血を流して倒れている彼女の姿を目撃します。驚き恐れた少女はすぐに自宅へ引き返し、牛馬商を営む47歳の父親にこの惨状を伝えました。知らせを受けた父親は谷和原村に住む弟を呼び寄せ、2人で現場へ駆けつけると、そこには変わり果てた姿の女性が横たわっていました。
被害に遭った37歳の女性は、8年前に秋田県仙南村から茨城へ移り住んできた、近所でも評判の秋田美人でした。彼女は牛馬商の男性から食肉販売の商売を任され、いわゆる二号生活を送っていましたが、その絆は非常に強いものでした。男性が窃盗罪で3年間刑務所に服役していた間も、彼女は他の男を作ることもなく、ひたすら彼の帰りを待ち続けて商売を切り盛りしていたといいます。ようやく再会を果たした2人は、事件のわずか3日後である4月10日から、彼女の故郷である秋田へお花見旅行に出かける予定でした。
この複雑な人間関係は、男性の正妻をも巻き込んでいました。当初こそ激しい家庭内のいざこざが絶えませんでしたが、時が経つにつれ、正妻は夫の女性関係を半ば諦める形で受け入れるようになっていました。最近では子供たちが被害女性の家へ遊びに行くほど関係が奇妙に落ち着いており、その日常の延長線上で今回の第一発見に至ったという皮肉な悲劇が浮かび上がります。
現場は大穂町の中心地でしたが、近隣住民は夜の悲鳴などを一切聞いていません。室内には激しい格闘の跡があり、彼女の髪の毛が散乱していたものの、暴行された形跡はなかったといいます。故郷の桜を心待ちにしながら、一途に男性を待ち続けた女性の命は、昭和33年の春、あまりにも理不尽な形で奪われてしまいました。

昭和33年4月9日付の紙面では、事件の捜査状況と被害女性の知られざる過去がさらに具体的に報じられています。
昭和33年4月7日の午後2時50分頃、筑波郡大穂町吉沼(現在のつくば市吉沼)で発生した殺人事件に対し、筑波署(後のつくば北署、現在はつくば署に統合)は厳戒態勢で捜査を開始しました。警察は東大法医学教室に死体解剖を依頼するとともに、現場に残されていた凶器の肉切り包丁から指紋の検出を急いでいます。現場は大穂町役場吉沼支所のすぐ裏手という町の中心部でしたが、犯人は5寸ほど開いていた裏口から侵入したとみられています。
当初は強盗の可能性も検討されましたが、犯行の執拗さから捜査当局は痴情説を強めています。殺害された37歳の女性は、事件前日の4月6日20時頃、隣の乾物商の家へ「もらい湯」に出かけていました。その隣人の証言によれば、同日23時頃に室内で争うような物音が響き、2、3回悲鳴が聞こえたといいます。
被害女性と、情夫である47歳の牛馬商との出会いは数年前に遡ります。この男性が仕事の仲買で秋田を訪れた際に知り合い、彼女が茨城まで彼を追ってきたという、情熱的な背景がありました。茨城での彼女は「肉屋のかあちゃん」として近所の人々に親しまれ、色白の秋田美人でありながら、つつましく誠実な暮らしぶりだったと評されています。
一方、この男性の足取りも判明しています。彼は4月5日に女性宅へ宿泊した後、6日は谷和原村の弟と商売に出かけ、発見当日である7日は豊里町今鹿島の自宅に戻っていました。愛する男性のために故郷を捨てて茨城へ渡り、彼の服役中も一途に待ち続けた末の、あまりにも残酷な幕切れでした。

昭和33年4月10日付の茨城新聞では、犯人像に迫る新たな物証と、当時の社会背景がより鮮明に報じられています。警察は47歳の牛馬商の男性の商売仲間や、被害女性の自宅に出入りしていた人物を重点的に洗い始めました。現場からは3万円入りの財布がなくなっていることが判明しましたが、室内を物色した形跡はなく、ハンカチに包まれた別の2万円や衣類は手付かずのままでした。こうした状況から、警察は強盗に見せかけた痴情による犯行、すなわち彼女の身持ちの固さに阻まれた人物による「片思いの凶行」との見方を強めています。
犯人の特徴についても具体的な推測が出ています。逃走経路とみられる裏の雨戸には血痕が付着しており、その位置から犯人は身長5尺5寸から6寸、現代の単位で約167センチから170センチほどの背の高い人物と推定されました。また、遺体にはいたずらされた形跡があり、犯行中に彼女に騒がれたことで殺害に至った可能性も指摘されています。捜査の過程では、吉沼から常総筑波鉄道の宗道駅へ抜ける途中にある小貝川の愛国橋付近でタオルが発見されましたが、血痕がないため事件との関連は低いと判断されました。
この緊迫した捜査報道が並ぶ一方で、当時の紙面には昭和33年という時代の息遣いが随所に現れています。教育面では中学卒業生の90パーセントが高等学校へ進学し、高校卒業生の80パーセントが就職するという、高度経済成長期直前の「金の卵」世代の動向が報じられていました。また、大洗海岸でのワカメ採りといった季節の風物詩や、日興證券による「減税貯蓄」の勧め、日本酒「四季の春」の華やかな広告からは、人々の生活が少しずつ豊かになり始めた時代の活気が伝わってきます。男性を待ち続けた一途な女性の悲劇を追いながら、当時の新聞はこうした新しい時代の希望も同時に伝えていました。

昭和33年5月18日付の茨城新聞は、大穂町の殺人事件が「二号」による犯行であったという衝撃的な解決を報じています。これまでの紙面から明らかになった、凄惨な事件の裏に隠された複雑極まる人間模様を再構成します。
事件の犯人として逮捕されたのは、土浦市真鍋に住む44歳の女でした。彼女は47歳の牛馬商の男性と昭和15年頃から18年来の付き合いがあり、彼と同じく肉類販売を営みながら、4人の子供をもうけていた「二号」の立場にありました。もともと豊里町出身で、昭和5年に夫を病死で亡くし2人の子供を抱えて困窮していた彼女は、当時金離れの良かったこの男性に魅力を感じて深い仲になったという経緯があります。しかし最近になり、男性が秋田出身の「三号」である被害女性にのめり込み、自分のもとへ通う回数が減ったことで、殺意を抱くほどの激しい嫉妬に駆られていました。
事件直前にも被害女性宅へ乗り込んで喧嘩をするなど、憎悪を剥き出しにしていた彼女ですが、犯行当夜の行動は極めて大胆でした。4月7日の深夜1時頃、現場近くで目撃されていた彼女は、犯行後の午前4時過ぎに男性の自宅がある豊里町今鹿島に現れます。近所の人に「彼を呼んでくれ」と頼み込み、駆けつけた男性の運転するオート三輪で土浦まで送らせていました。帰宅後は周囲に「6日夜から7日朝まで在宅していた」と言いふらすアリバイ工作を行い、4月12日からは何食わぬ顔で男性の家へ田植えの手伝いに出かけていました。
男性側も、こうした彼女の異様な行動から事情を知っていた可能性が高いとされ、恐喝容疑などでともに検挙されています。勝気な性格で近所付き合いは普通だったという彼女は、あろうことか被害女性の葬儀にも平然と参列していました。しかし、家では隠しきれない動揺を見せていました。子供たちがプロ野球の結果を知りたがっているにもかかわらず、配達された新聞を読んではすぐに隠すという不審な行動を、幼い目が見逃していなかったのです。
男性を服役中も一途に待ち続け、ようやく訪れるはずだった故郷の春を前に散った「三号」。そして、生活の糧であり愛の対象でもあった男性を奪われまいと凶行に及んだ「二号」。同じ男性をめぐる二人の女性の執念と愛憎が、昭和33年の静かな町を揺るがす悲劇の真相でした。

昭和33年5月19日付の茨城新聞では、犯人である「二号」の女がついに重い口を開き、凄惨な事件当夜の様子を自供しました。その供述によれば、肉切り包丁を手に先に切りかかってきたのは「三号」である被害女性の方だったといいます。しかし、三号が格闘の最中に躓いた隙を見逃さず、二号が包丁を奪い取って逆に馬乗りになり、夢中で刺し返したというのが彼女の主張です。
警察は当初、情夫である牛馬商の男性自身が手を下していないにしても、何らかの事情を知っているはずだと睨んで捜査を進めていました。一方で、彼が犯人ではないと判断された背景には、現地で行われた死体解剖の際の姿がありました。解剖の場で、彼は亡くなった女性の体に縋りつき、男泣きに泣き崩れたといいます。その様子が、単なる演技とは思えない深い悲しみに満ちていたことが、捜査当局の判断に影響を与えたようです。
しかし、その後の聞き込みから、事件直後の4月7日早朝に、この男性が運転するオート三輪で土浦まで送られた女の存在が浮上します。警察は事件からわずか1週間後の4月16日には、土浦の二号を参考人として召喚し、厳しく追及していました。
こうして、つくばの静かな町で起きた愛憎劇は、ひとりの女性の自供によって幕を下ろしました。男性を信じて北国から追ってきた三号の純情と、長年連れ添った末にその居場所を奪われまいとした二号の執念。昭和33年という時代の狭間で、同じひとりの男性を愛した二人の女性の衝突は、あまりにも残酷な結末を迎えました。

昭和34年7月31日付の茨城新聞では、事件から約1年3ヶ月を経て開かれた公判の様子と、検察側による厳しい求刑の内容が報じられています。この公判により、これまでの愛憎劇の裏側にあった、より計画的で冷酷な殺意の全容が法廷で明らかにされました。
水戸地裁土浦支部で行われた論告求刑において、検察側は実行犯である「二号」の女に対し、殺人罪で懲役15年を求刑しました。また、共同正犯として問われた牛馬商の男性に対しては、なんと無期懲役という極めて重い刑が求刑されています。検察側は、二号が三号(被害女性)を「いなくなればよい」と執拗に男性に働きかけ、男性もまた「二号から何度も言われてその気になり、凶行の打ち合わせをした」という共謀関係を、厳しく指弾しました。
法廷で明かされた事実によれば、犯行は突発的なものではなく、極めて周到に準備されたものでした。二号は指紋を残さないために手袋を着用し、あらかじめ布に包んで持参した刃渡り20センチメートルの肉切り包丁を凶器として使用しました。5寸ほど開いていた裏口から侵入した二号は、布団の中で無防備に寝ていた三号を惨殺したあと、血のついた衣類を風呂敷に包んで持ち出し、逃走途中の麦畑に埋めて証拠隠滅を図っていました。
この重い求刑の背景には、当時の社会通念に照らしてもあまりに身勝手な動機がありました。二号は18年にわたり男性と内縁関係にあり、4人の子供を育ててきましたが、三号が「本宅」を構えるような動きを見せたことに激しい危機感を抱いていました。一方の男性は、解剖の場で男泣きに泣き崩れるという「三号への愛」を見せながら、その裏では二号をオート三輪で送り届けるという冷徹な共犯者としての顔を併せ持っていました。
この日の紙面には、夏の盛りを感じさせる「日ヤケはストップ!テルミーサンマータン」の化粧品広告や、シャープの扇風機のサマーセール、さらに「ダイヤショックのついたマーベルとユニーク」というセイコーの腕時計の広告が並んでいます。高度経済成長の華やかな日常が加速する一方で、法廷では一人の男をめぐる女たちの執念と、それによって引き起こされた凄惨な結末が、白日の下にさらされていました。

昭和34年8月4日の茨城新聞です。
昭和34年7月30日の公判で、検察側から無期懲役という極めて重い求刑を受けた牛馬商の男性(48歳)は、その判決を待つことなく、自ら人生の幕を引きにいきました。次回公判が8月31日に予定されていた中、その約1ヶ月前である8月2日の夜、収容されていた水戸拘置所土浦支所の独房内で自死しているのが発見されました。
「無期」という絶望的な求刑に対し、彼は法廷で裁かれる前に自ら「人間清算」を選んだことになります。彼が遺した遺書には、ただ一言「すまない」と記されていました。その言葉が向けられた相手は、事件の犠牲となった「三号」でも、共に裁きを待っていた「二号」でもなく、長年家を守り、彼の複雑な女性関係の果てに起きた悲劇を静かに見守らざるを得なかった「本妻」でした。
紙面には、遺体を引き取りに来た本妻が「ただ泣き崩れるばかりであった」と、その痛々しい様子が描写されています。一人の男をめぐる女たちの争いは、法による審判が下る前に、首謀者と目された男の自決という最も虚しい形で終焉を迎えました。
この終焉を報じる紙面の下部には、華やかな「花王石鹸」の広告や、夏の健康を守る「ビオフェルミン」の広告が並び、戦後から高度経済成長へと突き進む社会の活気が溢れています。しかしその光のすぐ傍らで、馬喰(牛馬商)という古い職能に生きた男が、自らの情愛が生んだ泥沼のような愛憎劇を、死をもって清算した事実は、昭和という時代の裏側にあった深い闇を象徴しています。
Geminiによる要約は以上になる。
そのようなダークツーリズムを続行する。
そして、区間快速は守谷で降りる。
何でも、八潮で急病人を介助したそうで、TXの上りは遅れていると言う。
ここからは関東鉄道に乗る。
水海道で決死したかったので、あえて早いのに乗ってきたのだ。
水海道行きはそこそこ人が乗っていた。そうでなければ、鉄道路線として維持なんかできないだろう。
そして水海道に到着。
ここから先、大体30分ぐらい後に下妻行きが来るので、それを待つことにするが、その間に決死していることにする。
光線状態があまりよろしくない。
それでもどうにか決死して、2番線からの下妻行きに乗ることにする。
1番線は、あくまで水街道で折り返す列車専用のようだ。
ともかくも下妻行きの中の人となる。
車内にはパラパラと人がいる。
そして宗道で下車。
宗道は2005年まで千代川村の中心駅であったが、現在は、下妻市と合併しており、石下と違って快速は止まらない。
駅前はタクシー会社があったりいい感じだ。
そして、なんとヒンズー教の寺院まである。おそらくネパール人の技能実習生が多いのだろう。
そして、駅前に飲食店があるはずなので、そこに寄ることにしよう。
そう思って入ってみると、なんと待っている人がいるのではないか。
ここが行列店であると初めて知った。
それでも、すぐにカウンター席に通されて注文を聞かれる。
いろいろなラーメンがあるようだが、炙りチャーシューにんにくラーメンにする。
そして出てきたラーメンは、かなりでかくて、二郎系かとすら思った。
正直、このような分量だったら、朝食すらいらなかったのではないだろうか。
とりあえず、ラーメンともやしとチャーシューは腹に入れて出ることにする。
今日は10キロぐらい歩かないとペイできないのではないだろうか。
そして、吉沼までの道を歩くことにする。10キロではなく4キロ位。
歩くと、関東平野の原風景ではないかと思えるような道を行く。
おそらくは、事件当時も秋田との行き来はこの道路を歩いて行ったのではないだろうか。

いや、当時であれば国鉄バスの南筑波線が古河〜下妻上町〜土浦まで通っていたはず。
この路線は、吉沼にも通っていたのだ。
それで、Kindleで買っている昭和33年11月の時刻表で調べてみると、古河までは1日に4〜5本走っている。
ついでに言うと、東北本線はと言うと、当時上野から秋田方面に走っていたのは、夜行の青森行き「津軽」と昼行の秋田行き「鳥海」。
いずれも古河や飯詰には停車しない。
ちなみに、この当時は日光行きの準急も走っていたが、こちらは古河どころか小山にすら停車せずに、東武特急と勝負をかけていたようだ。
そのかわり、上野から直通する鈍行列車が何本か走っており、これで往復していた可能性は十分にある。
宇都宮までの電化が昭和34年であり、この当時はEF57ですらなく、SLが牽引していたのであろう。
そんなことを考えつつ、途中にセブンイレブンがあったので、寄ってゼロコーラを買う。
そしてまた「関東の原風景」を歩くことにする。
小貝川が近づいてくると、風が強くなってくる。それもそうだろう。家も少なく、なおかつ水の上なら空気抵抗は少ない。
そして当時の新聞記事にも出てきた「愛国橋」を渡るとつくば市、当時でいえば筑波郡大穂町に入る。
程なくして、ちょっとした街並みに入る。
古い家も残っており、当時であれば「肉屋のかあちゃんが殺されたっぺ」「今鹿島の馬喰に囲われてたんだっぺ」と噂になっていたのかもしれない。
実際に事件があったであろう住所地は、既に一般の民家になっている。周辺が肉屋だったり、金物屋だったりした形跡はもう既になくなっている。
さて、研究学園駅に行くバスまであと20分ぐらいあるので、喫茶店的なところにゆっくりしていることにしよう。
そう思ったら「吉沼まちかどテラス」というところがある。
地元のおじさんやおばさんたちが集まっており、寄り合いをしているのかと思ったら、普通にカフェとしても営業していると言う。
和風カフェとなっているようで、着物に割烹着の女性が忙しく働いている。
集まっているお爺さんやお婆さんは、もしかしてこの事件を知ってるだろうか。聞いてみたい衝動に駆られてしまう。
一生懸命吉沼地区の町おこしについて会話している。
結局、お茶が着いたのが14時20分ごろ。もうバスは間に合わない。
バスはもう15時41分にしよう。その間、事件記事の要約を進めていることにしよう。
店の女性は「どうやってこの店を知ったんですか?」なんて言うので、「まあ健康のために宗道駅から歩いていたら辿り着きました」と。
どうやら、主な客層はインスタを見た人とか地元の人らしい。
そして15時41分が近づいたのでバスに乗る。
つくバスなのでつくば市が運営しているバスだ。
最初はガラガラだ。これで存続できるのかと思うほど。
旧大穂町内はそんな調子だったが、研究学園駅が近づくあたりで客が乗ってきて席が埋まった。
そして研究学園駅に到着。
研究学園からTXでつくば駅に戻り、図書館に行く。
図書館で茨城県南の事件記事をコピーしていく。
外はすっかり暗くなってしまった。
そして、今日は髪を切ることにしよう。
ということで、クレオの床屋へ。
かなり待たされたので、待ってる間にコピーしてきた紙をファミマでスキャン。
そして髪を切る。
待っている間にnote小説をアップする。
その後、バーガーキングでマッシュルームワッパー。
その後、またコメダで電源を取りながら日記を追い付かせる。
周囲の席では結構な人がパソコンを広げている。
それだけでも居心地がいい。
結局、22時近くに出る。
そしてベルクに寄ってヨーグルトを買おうと思ったら、1つしかなかった。
そして帰宅する。
そして風呂に入る。
23時過ぎに入って、30分ぐらいであがろうと思ったが結局0時半近くまで入っていることに。
もう寝てしまおう。
今日の決死出演は4名(累計19名)。






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