8月10日は、日本と世界でいくつかの記念日や特別な日として知られています。以下に主なものを挙げます。
日本
1. 道の日: 日本では1920年に道路法が制定された日で、1986年に国土交通省によって「道の日」と定められました。道路や交通の重要性を再認識する日です。
2. 健康ハートの日: 日本心臓財団が制定した記念日で、心臓疾患の予防や健康な心臓を維持することを目的としています。8(ハート)と10(テン)で「ハートテン」と読む語呂合わせに由来します。
3. バイトの日: 「バ(8)イト(10)」の語呂合わせから、パートタイムやアルバイトの意義を考える日とされています。
世界
1. 世界ライオンの日 (World Lion Day): ライオンの保護とその生息環境の保全を促進するために制定された国際的な記念日です。
2. ラジオの日 (World Radio Day): これは一部の国で記念されている日で、ラジオの発展とその文化的な影響を祝います。
これらが、8月10日に特に注目される主な記念日です。国や地域によっては他にも独自の記念日が設定されている場合があります。
日記の後半は巉嶼を洗って14時半頃から始まる。
おがさわら丸の出港は15時半なので、15時少し前に出ればいいだろう。
それまでに準備すべきものを準備しておくことにする。
そうやってぼんやりしていたら、15時が過ぎてしまった。
流石にさっさと二見港に行かなければいけない。
ということで、家中の電気を全部消していくことにする。
お土産も買っていくことにする。
都合、7つになってしまった。
二見港に行くと、すでに乗船が終わっていた。
乗船券交換も全く列をなしていない。
乗船券に引き換えたら急いで乗ることにする。
今回は595-16。つまり上段だ。
荷物をベッドに全部置き、デッキに出る。
今回は6階のデッキにする。いろいろ思うところもあるので。
そして15時30分、汽笛の音とともに出港する。
いつもながらの感動的なお見送り風景。
しばらく見送り船が追いかけて飛び込んだりしている。そのたびに歓声が上がる。
後は部屋に戻ってつまむ物や飲む物を買い込み7階のラウンジに行く。
さすがに今日のような日は満席でどうにか隅っこの席を取ることができた。
船の揺れがそれほどでもないうちに、iPadで本を読むことにしよう。
まずは「消えた球団 1950年の西日本パイレーツ」より。
これは、西日本新聞福岡県版に連載された記事を元にした本であるという。
実に親会社は今なお現存しているのだ。
まずは昭和24年11月、その頃の1リーグ制度の日本野球連盟が解散し、セントラルリーグとパシフィックリーグに分かれたところから始まる。
セントラルリーグに西日本新聞が参入することにしたのだ。興味深いのは、「松竹または小田急の8チーム」と書いていることである。
もしかしたら小田急が球団を持っていた可能性もあったようだ。
その時は、九州の優秀な選手や、九州出身のプロ野球選手でチームを編成しようと考えていたようだ。
また、最初は西鉄と西日本は1つのチームでプロ野球チームを作るようだったが、セ・リーグとパ・リーグの分裂で2つになってしまったようなのだ。
西鉄は加盟に当たって「毎日・近鉄と行動を共にする」と誓約書を交わしており、なおかつ巨人としては親会社の新聞者の関係で同じリーグでやりたいと言う思惑があったようだ。
戦前のプロ野球で、「西鉄軍」というチームがあり野口二郎などが在籍していたようであるが、実際は九州で試合を行った事はなかったのだという。
このようにリーグ分裂でチームが増えたら選手をどうするかなのだが、そのチーム編成に当たったのは、国民リーグの会長だった宇高勲であったという。
それで東急や阪急から清原初男・平井正明・日比野武などの戦前からの名選手を引き抜くことができたようだ。
そして監督は早稲田の強打者であり、戦前は大阪、タイガースでプレイした小島利男で、その時点では電通に勤務していたという。
それでなくとも戦後の混乱期でもあり、統一契約書もない時代で、引き抜きは仁義なき世界だったようだ。
この時福岡市の人口は40万人だったようだが、チーム名を決めるのに280,000円の応援があり、候補としては、マルーンズ・ファルコンズ・フェニックス・バッファローズ・オストリッチ(ダチョウ)・シャークス・ゼブラス・クレイダース(噴火口)・グェイル(疾風)・コメッツ・クチューンズ・ロードスター・ローズといったものがあったようだった。
結局その中から「パイレーツ」が選ばれたようである。
興味深いのは、新人選手として別府星野組で活躍した小嶋仁八郎が入団する予定だったのであるという。
ところが、部屋を麻雀部屋にされ、うるさくて眠れなくて、抗議しても逆に「チームワークを乱すな」と怒られてしまい、それで津久見に帰ってしまったのだという。
それが津久見高校を甲子園で全国制覇させるに至ったのだからすごい。
そしてオープン戦に入るのだが、下関にあった大洋ホエールズとの試合には勝利し、甲子園球場で行われたセ・リーグのトーナメント戦でも巨人や松竹を破り決勝まで出たのだという。
そして決勝では中日を破り、なんと西日本パイレーツが優勝するという幸先の良さだった。
そしてセ・リーグの開幕戦も、広島に勝利する。
しかし第二戦の巨人戦は負け、その後も負けが続く。
とは言え、全く歯が立たないボロ負けではなく、ギリギリのところで競り負ける試合が多かったようだ。
ところで、パイレーツは九州の球団であるが、九州での試合は少なく抑えざるを得なかったようだ。
それは1チームだけ九州にあること、福岡市営の平和台球場の使用料が高かったことが挙げられる。
結局、平和台では4試合しか開催できなかったのだという。
そして昭和25年6月28日。この日は巨人の藤本英雄がパイレーツ相手に完全試合を達成した日である。
青森球場で行われ、写真が1枚も残っていないことで知られるが、なぜ完全試合を食らったのか。
それは連戦に次ぐ連戦で疲れていたからなのだという。
また、この2日前に札幌で行われた広島戦では、日比野などホームランで20対6で大勝したこともあったのではないかと言われる。
1998年に深浦高校に122対0で勝った東奥義塾だって、次の試合では野球では無名の田名部高校に14対2で負けている。打ちすぎるとどうしてもそうなってしまうのだ。
そこまで読んでいたら、ラウンジの向こうに島が見える。
おそらくは聟島だ。
最初は7階のデッキから聟島を取ろうと思ったが、なかなかGPSが取れない。
屋根が邪魔してるんだろうか。
それで屋上のデッキに出て、前方向を取ることにした。どうせ後ろ向きに撮ったところで、聟島が見える事は無いのだ。
決死が終わったら18時過ぎていたので、4階レストランで夕食とする。
夕食はかき揚げそば。
その後ベッドに戻ることにする。
食べてからすぐに寝ても良くないかと思ったが、船はそれなりに揺れている。
再び西日本パイレーツの本を読む。
青森球場の完全試合は、青森出身の寺山修司やなかにし礼が見ていたのだという。
中学生だった寺山少年は「藤本のスライダーに手も足も出なかった」と観戦記を残している。
結局、本拠地の平和台で4試合しかできなかったパイレーツであるが、遠征に次ぐ遠征、交通事情が悪かった時代に74泊75日という恐ろしい日程で試合をしていたという。
当時の列車事情も興味深く、京都を本拠地としていた松竹ロビンスのエース・真田重蔵も「夜11時になると誰かに犠牲になってもらって床に寝てもらう。そしてピッチャーは腰掛けで寝て楽だった」と述懐している。
6月末の完全試合だって、そんな「死のロード」の真っ最中の話であった。
そんなパイレーツは困った事に、4月早々からまともに契約金や給料も払われていなかったのだという。
それで代打で出る選手も、まともにやる気もなかったらしい。
結局、昭和25年のシーズンは、50勝83敗3分の8球団中、6位で終わった。
親会社の西日本新聞も、シーズン中盤以降は、試合結果を報じるのも、ごく簡単な表記で済ませたのだという。
自分たちのチームであるにもかかわらず。
シーズンが終わると、優勝した松竹対毎日で争われた「日本ワールドシリーズ」の裏で、パイレーツ対西鉄クリッパーズの「九州一決定戦」が行われたのだという。
球団が2つあった九州らしいと言えばらしい気がする。そしてそれは日本シリーズのように7戦行われ、2勝5敗で惨敗したと言う。
Kindleは読み進めたパーセンテージが表示されるので、どこまで読んだかわかるのだが、シーズンが終わったところで54%。残りの46%は解散の経緯についてことになる。
とはいえ、なにぶんにも70年前の話であるので、今になって関係者に取材するなどできたものではない。結局「このように報道されていた」ということ、知る限りの当時の制度について当てはめていくしかなかったようだ。
そこから見えてくるのは、興行収入の分配や引き抜きを解決するための金銭で経営が圧迫されていたということ。
そしてまた、パイレーツの経営が火の車であり、解散の崖っぷちであったという事は、シーズン中から噂されていたようだ。
そして昭和25年の12月には、パイレーツと広島以外の6球団が、巨人を中心としてリーグのお荷物であった2球団を他球団と合併させて解散させようという会議まで持たれたのだという。
そもそも西日本新聞が球団を持ったのは、巨人の親会社である読売だったはずなのに、今度は西日本を追い出そうとする。
このことに憤らないはずはなかった。
まず、巨人軍総監督に棚上げになって干されていた三原脩を監督として招聘する。というか引き抜く。
三原の引き抜きというか招聘に成功したが、巨人の頃から「三原派」だった青田昇も「西日本についていく」となった。
これで契約が拗れてしまい、西日本を排除したいセ・リーグ6球団が「どうせ潰れるんだから、青田巨人に返せ」の大合唱になった。
それで結局、西日本はセ・リーグにいられないとなってしまい西鉄クリッパーズと合併し、パ・リーグに行くことになってしまったようだ。
それにしたって、この間の巨人の動きは横暴でしかない感じがする。
「西日本は1年間休業しろ。選手は各球団に分配する」と勝手に言い出したり、セ・リーグ会長の鈴木竜二を巻き込んでやりたい放題だ。
この20年以上後の江川卓の入団にしても、「巨人あってもこそのプロ野球」と言わんばかりに巨人の裁定をしていく。
なるほど、後年「死ね死ねくたばれ巨人軍」と替え歌されるわけだ。
ともかくも、西日本パイレーツは西鉄クリッパーズと合併して「西鉄ライオンズ」となった。
そして昭和26年のシーズンは緒方俊昭・日比野武・長利勇吉などのパイレーツ戦士が活躍して南海に次ぐ2位となった。
最後の方では、2019年当時存命であった中日のエース・杉下茂のインタビューでパイレーツとの試合を回顧している。
昭和25年のシーズンはパイレーツから6勝を挙げている。
プロ2年目だった杉下にとって、これが自身につながったと言うことを回顧している。
読み終わったときには、21時を過ぎていた。
ちょっと小腹も空いたので、夜食を食べがてら本でも読むことにしよう。
自動販売機でチョコレートパンを買って、夜間解放中の4階のレストランで食べながらiPadの本を読む。
小笠原協会が発行している「小笠原」別冊61号の「小笠原航路の船ぶね」を読むことにする。
そして23時ごろベッドに戻ることにする。
そしてそのまま寝入ってしまう。
ここまでの決死出演は2名(累計4名)。