太平洋の波の上

小笠原諸島Bonin islandsは梅雨前線が下から近づいているが、基本的には高気圧に覆われている。
今日1日は、晴れか曇りで推移するようだ。
最高気温は29℃になると言う。

目が覚めたら5時過ぎだった。
それもそのはずで、昨日は眠くなって風呂にも入らず寝てしまったのだ。

まず最初にやるべき事は、風呂に入ること。
風呂の中でブラウザゲームをやっていたら、昨日までとは打って変わって調子が悪くなった。
これではクラスアップはできそうにない。
というか、今週はパーティー全体が経験値が低く、クラスアップはできないんじゃないかと思っていたところに、たなぼた的な絶好調だったので、ある意味。それは当たり前なのかもしれない。

Twitterを見ると、どこだかの新聞記者さんがLGBT問題に取り組んでいる人に対し「あなたはLGBTですか」と無邪気に聞いたのだそうで、これに対し、その新聞社の所属の支社長が「この記者は入社したばかりで悪気がなかったのです」と謝罪に来たのだそうだ。
おそらく、何倍もの入社試験を勝ち抜いてきたその若い記者は「この失敗を糧に、またくじけずに記者をやる」のだろうが、最近の「ジャーナリスト」は苦労が足りないのではないだろうか。
もうちょっと「死ぬか生きるか」のところを乗り越えても良いのではないかと思う。

…なんて、そんなことを考えていると、自分にも跳ね返ってくるので、めったな事は言わないようにしよう。
何しろ、決死撮影は「ジャーナリズム」と位置づけているので。

それはともかく、風呂から上がったら朝食にしよう。
朝食は昨日生協で買ってきたヨーグルト。

そんなことをしていたら、8時が過ぎてしまった。
とは言え、今日は休みを出しているので、別に構わないのだが。
ただし、鳩首会談の資料を今日作らないといけないので、1度は職場に顔を出さないといけない。

さて、では、散歩に出ることにしよう。
今日は東京に行くので、お土産にサンゴでも拾って行こう。

二見港では、おがさわら丸がエンジン音を轟かせている。
今日の15時になれば出港だ。

ところで、奥村の港は、やたら匂いがひどい。
これは、サンゴの産卵期なのだと言う。
そうなると、海が赤くなるのだ。

そして製氷海岸にたどり着く。
海岸のサンゴは、ここ最近の低気圧でかなりが堤防の近くに押し流されているが、それでも大振りなものをいくつか見つけることができた。

ここで決死撮影しようと思ったら、カメラのバッテリーが切れていた。

仕方がないので、とぼとぼと戻ることにする。

帰宅したら、ポストに何か入っていると思ったら、アマゾンから。
開けてみると、μちゃんの「私はないものを数えない」だった。
予約していた本がいよいよ小笠原にも届いたのだ。

その他、ユニクロで頼んでいた薄いズボンも届いた。
これまで、実は、洗濯の時に楽であるというだけの理由でヒートテック、パンツを履いていたのである。
小笠原でヒートテックとはびっくりである。

それで、ヒートテックのないバージョンのズボンも注文していたのだが、サイズ的にもちょうど良い。
もっと注文しようと思ったら、全然ない。
困ったもんだ…。

汗をかいたので、ぐったりしていたら、もう10時になりそうだ。
10時半からちょっとした打ち合わせがあるので、職場に行かないといけない。

そして、職場に行き、まずは鳩首会談の資料を作成する。
伍長23-1にお願いしていたのだが、その他の報告を入れ込むのを忘れていたので、自分でやってしまうことにする。
23-1は23-1で、今日はそれどころでは無いようだ。

これは送ってしまったら、今度はオンライン会議が始まる。
月の頭に予定しているプレゼンについて、どんな感じでやるのかの事前報告会。
これについては、兵隊たちに任せているのだが。

ひと通り、こちらで作成した資料を発表したのだが、反応としてはかもなく不可もなくと言う感じ。
なんだか「No Question is No interest」と言う格言を思い出す。

そして、직맹関係の仕事を何件かこなすが、退会届が何通か来ていたのに腰を抜かす。
全く以てがっくりだ。

そして、12時が近くなったので帰ることにする。

帰宅して、肉を解凍しながら鍋の準備。
ささみは、いつもは4個、解凍するが、今日はロッコ残っているので、それを全部使い切ってしまうことにする。
これで、出張所のみんなで共同で買ったささみはなくなってしまった。

鍋を食べたところで、しばらくゆっくりしている。
副産物ブログも、今日の分を書いて終わないといけない。

今日は15時に出発であるが、受付の締め切りは14時40分であると言う。
それで、着替えや荷物を詰め込んで出発する。

外は非常に暑い。

途中、まるひでお土産を買う。
직맹の事務員さんは、フルーツの嫌いな人であるが、チョコレートやクッキーなど、フルーツのないお土産も結構あるものだ。

そして港に到着すると、なぜか小笠原中学校の旗が掲げられている。

あー、そういえば6月1日から10日まで「日本一長い修学旅行」と言うのを聞いたことがある。
こうやって、「出発式」を執り行うわけだ。
校長先生は、この暑い中正装で挨拶をしている。

さて、14時半が過ぎて700番台から500番台のチケットの乗船が始まった。
今日はそれほど乗客が多いわけではないようだ。

そして、ほどなくして400番台のチケットを持っている乃公おれの乗船も始まった。

そして、まずはベッドに荷物を置く。
そしてデッキに出てみると、修学旅行の中学生たちが思い思いに写真を撮っている。
また、中国人観光客と思しき客もはしゃいでいる。

そして15時、おがさわら丸は定刻に出港する。

何しろ4月3日の時のトラウマがあるので、最初のうちはベッドでおとなしくしていることにする。
上を向いて本でも読んでいることにしよう。

最初に読んだのは浜崎真二「48歳の青春 球界彦佐自伝」。
浜崎真二は昭和25年に阪急ブレーブスのマウンドに立ったと言うことで知られている。
その後、高橋ユニオンズや国鉄スワローズで監督を務めたようであるが「おじいちゃん」と呼ばれていたようだ。

ところで、船の揺れはそれほどでもないようなので、いちどデッキに出てみようか。

デッキの1番後ろには、6人で酒を飲めるだけのテーブルが3つ備えてある。
お一人様の乃公おれがこのテーブルを占有するのは何だか申し訳ないような気もする。

さて、浜崎真二の自伝なのであるが、前半生は慶応のスタープレイヤーであったり、満州にわたり満鉄で駅員をしていたようだ。
「できないことはできない」と開き直ったり、出会う上司に恵まれたり、大人の事情で得をしたりと、かなり幸運に恵まれていたようだ。
また、社会主義者を弾圧したことで知られる甘粕正彦にも満映で直接仕えていたようだ。

また、戦後になると、阪急ブレーブスに入団するわけであるが、昭和20年代の阪急ブレーブスの状況がよく分かる。
戦後すぐは、カケ屋との戦いであったようだ。
つまり、野球賭博の暴力団ということである。
これに関しては、鶴岡一人も同じようなことを言っており、カケ屋に毒されている選手を見極めるために、自分でファーストを守ったといううことも書いている。
ところで、青ヶ島に旅行した時に一緒に飲んだ起業家さんは、Twitterでしきりに「反社との戦い」といったことを書いているようなのだが、ああいうことを書いていて大丈夫なのだろうか。気安くメンツを潰すようなこと書いてたら消されるよって。

それはともかく、浜崎は高橋ユニオンズの監督をやめた後は巨人の投手コーチもしていたようだ。
また、末期の国鉄スワローズは、産経グループも経営に参画していたようで「国鉄閥」と「産経閥」につばぜりあいがあったようだ。
また、立教で長嶋茂雄を鍛えた砂押邦信が監督に乗ったのはいいが、作戦面で問題があったり、立教閥で分派行動をしたりと、決して褒められた事はしていなかったようだ。

さて、本を読んでいたら、夕食の時間が近づいた。

いつもの非常食にお湯を入れて夕食とすることにしよう。
お湯自体はふんだんにあるのだ。

そして、ベッドもある4階のロビーのベンチに足を投げ出して今度は「パ・リーグどん底時代 激動の昭和48年」を読む。
そもそも、なぜプロ野球関係の本を持ってきたかと言うと、朝見たTwitterでこの本がいかに昭和48年のパ・リーグの危機を書いているかと言うことを解説していたからである。
かなり前にPDF化をしていたのだが、読んでいないままになっていた。

ともかくも、この本は、西鉄と東映の身売りに始まって、ロッテが本拠地の東京球場を失ってジプシーロッテとなり、監督の金田正一が太平洋クラブライオンズと遺恨試合を起こして、観客動員としては成功し、前後期制の2シーズン制となって南海が「死んだふり作戦」で優勝するなど波乱に富んでいたようだ。

ロビーで本を読んでいたら消灯してしまった。
22時には消灯するようだ。
東京まではまだまだ696キロあるという。
全行程の3分の1しか進んでいないということ。

ベットに戻ってさっさと寝ることにしよう。

今日の決死出演は7名(累計14名)。

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