【義手と義足の昭和史】かわいい義足の子(S35.5.13)

別居騒動で揺れていた仲本工事は突然の事故で亡くなってしまった。
そうした経緯のためか、相変わらず取材合戦は熾烈を極めており、いろいろなところに迷惑をかけているようだ。

その仲本工事が、まだドリフターズすら入っておらず学習院大学の1年生で、その学習院大学に体操部が無く音楽の道を志し始めた頃のこと。

昭和35年5月13日の朝日新聞東京版には、「かわいい義足の子」という記事が掲載されている。

もっと正確に言えば「”かわいい義足“の子」。
「かわいい」は、「子」ではなく、「義足」にかかっていることを明示している。

ともかくも、どのような記事であるかと言うと、東京都前には無人踏切が多く、危険だと言う事のようである。

無人踏切も何も、今の感覚で言えば踏切は誰も操作する人がいなくても自動で遮断機が降りてくるに決まっている。
しかし、この当時はそのような踏切があるわけではなく、踏切警手によって遮断機が上げ下ろしされていたのである。

そのような警手はいない踏切は、遮断機があるわけでもなく、電車の前を取ろうと思えば取れる状態になっていたと言うことである。

その結果、玉電の支線であり、現在も残る東急世田谷線では、そのような矛盾踏切で子供が足を引かれてしまい、ついには義足になってしまったと言う痛ましい事故があったのだと言うことを報じている。

「坊やの足に金ぴかの、おもちゃのような義足」と、見出しにもなった「かわいい義足」が形容されている。

ただし、写真は別の場所で、井の頭線の駒場駅の近くであると言う。
井の頭線もまだ「ステンプラカー」の時代ではなく、グリーンの電車の時代だった。

さて、今朝はこの駒場駅の跡に行くことにしよう。
駒場駅は、仲本工事がドリフターズに入った同じ年の昭和40年に、隣の東大前駅と合併して「駒場東大前駅」となっている。

新宿歌舞伎町の漫画喫茶で夜明かしして、新宿駅へ急ぐことにする。
起きたときには、6時を過ぎていた。
結局、延長料金440円を払うことになった。

晩秋の朝の新宿は身を切るように寒い。

そして、新宿から埼京線に乗るのだが、新宿駅では交通量の調査を行っていた。
どの改札から何番線に行くと言ったことを調査しているのだろう。

そして、埼京線の新木場行きで、ノンストップで渋谷へ。

渋谷の駅前の交差点も、さすがに早朝は人はガラガラである。
そしてハロウィンに向けて、路上飲酒の禁止の啓発を行っている。

井の頭線の渋谷駅は、交差点を渡った先のマークシティの下にある。
この時間、井の頭線を出発する吉祥寺行きは、各駅停車ばかりであった。

ラッシュとは逆方向だからガラガラと言う事はなく、立ち席であった。

そして駒場東大前に到着。
駅の広告は、多く利用するであろう東大生に向けたものが多い。

この駅の出口は、東西の端っこにだけついている。
駒場駅と、東大前駅の名残を感じさせる。

さて、この「駒場駅」側の西側の出口から少し歩くと、駒場駅の跡にたどり着く。
新聞記事にいう「駒場駅近くの踏切」と言えるものは、ここだけとなる。

と言うことで、ここで電車が通過したタイミングで決死する。

住宅地でもあり、朝のラッシュ時が近づいただけに、だんだん人通りが多くなってくる。
あまり変なことになる前に撤収して、1人の通勤客に戻ることとしよう。

そんな「義手と義足の昭和史」であり、水曜仕事

今回の決死出演は2名(累計9名)。

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