戦後しばらくのこと、屋久島は「日本の最南端」だった事があったようだ。
奄美群島は昭和28年12月25日に本土復帰するまで米軍に占領されていたが、トカラ列島も昭和27年2月10日まで米軍の施政下にあった。
だから、それ以外の地域の最南端は、屋久島。
朝っぱらからどうかとは思うが、そんな時代の鹿児島でのダークツーリズムをしたいと思う。
一体どのような事件であったか。
それは今を遡ること75年となる昭和22年のことであった。
昭和22年12月19日の南日本新聞に第一報が掲載されている。
年の瀬の鹿児島は、誰も彼も忙しい時期であった。
そんな時期の昭和22年12月18日に日付が変わった夜のこと、鹿児島の高見馬場に近い雑貨商に、ナッパ服で関西訛りの20歳位の男が、強盗に押し入って、一家3名を殺傷したと言うのである。
そればかりではなく、みかん箱に火をつけて逃げたと言うのである。
このうち、火事自体は隣家の大工によって発見されすぐに消された。
一体全体、下手人は誰か。
被害者宅には、ブローカーも出入りしており、取引上の争いも疑われた。
また、鹿児島の被害者宅がどの言動をもって「関西訛り」と判断したのか、この記事の中では「金を出せ」と言ったことだけを記している。
翌昭和22年12月20日の南日本新聞では、犯人の手掛かりが掴めたことを報じている。
鹿児島最大の繁華街である天文館通の林田バスの停留所に近い荷物一時預かり所で、犯人らしき男がトランクを預けたようである。
そして、「20番」の札が残されていたのである。
この「20番」の札を持った男が怪しいだろう。
荷物一時預かり所の72歳の女主人は、その時のことを覚えていたようである。
事件の1日前の12月17日の昼頃、色白でやせ形で美青年の一見20代前半位の男が、20番の札と引き換えに預けていったのである。
そして、事件のあった18日の午前8時ごろ、その20番のトランクを受け取りに来た男があったのだが、全く別の男であり、なおかつ20番の札もないと言う。
しかし、札がない以上は返すことができない。
「後で面倒なことが起こるから」と返さないことにしたのである。
どうやらこの男は、鹿児島育ちではないかと推測され、ここから複数人による犯行が疑われることになった。
翌昭和22年12月21日の南日本新聞では、「屋久島に高飛びしたのではないか」と言う記事が書かれている。
例の20番の荷札を持った男の名前が、屋久島行きの「十島丸」の乗船名簿から見つかったと言うのである。
この男は、事件の前日まで、現在の鹿児島県立図書館に近いあたりの旅館で泊まっていたようであるが、人相はそっくりだったと言う。
ところが、この記事のすぐ下に「捕まった」旨の記事も書いてある。
この当時の日本で、屋久島の先はもう日本ではない。
その日本最南端の警察署であった屋久島警察署から、20日の20時40分過ぎに、犯人を逮捕した旨の電報が鹿児島県警の部長宛に届けられたのである。
事件はあっさり解決してしまった。
その翌日の昭和22年12月22日の南日本新聞では、犯人の詳細や一問一答まで掲載している。
今では考えられないことに、その犯人は17歳の少年であるにもかかわらず、実名や顔写真まで報じられているのである。
少年の身柄は、21日の19時20分に、警察の船によって護送されてきた。
鹿児島港の第一桟橋に降り立った少年に、野次馬は「引きずり倒せ」「ぶち殺せ」の罵声を浴びせたと言う。
しかし、当の少年は17歳の少年とは思えないふてぶてしさだったと言う。
この少年は、父はなく継母に育てられてきたようだ。
そして鹿児島には、武蔵たる目的もなくやってきたようだ。
そして、最初から強盗殺人をやるつもりだったようで、天文館で酔っ払った被害者を見つけて、これはカモだと思ったのだと言う。
特に戦後すぐの強盗殺人に多い例であるが、金を持ってそうに見えると、被害者になると言うケースだった。
この少年事件の裁判は、翌年昭和23年の2月21日の南日本新聞に報じられている。
前年の年の瀬の鹿児島を震撼させた大事件であっただけに、裁判所には傍聴人の希望者が殺到することになった。
また、法廷そのものが撮影されているのである。
全てにおいて、今では全く考えられないような話ばかりであった。
この法廷で、犯行の動機を聞かれ「鹿児島にいても面白くないので帰りの旅費を稼ごうと思った」とふてぶてしく答えたと言うのである。
そして、新聞や指名手配の張り紙を見ても何とも思わなかったと言うのである。
今の言葉で言えば「サイコパス」と表現されるであろう。
結局、このようなサイコパスな少年被告に対し、検察は死刑を求刑することとなった。
その結果、死刑は確定するわけだが、その後、サンフランシスコ講和条約で無期懲役に減刑されたようであるが、身元引受人もなく、何より反省の上もないと言うことで、60年以上塀に入れられていたようである。
そして、以下の資料では、少なくとも2010年の時点では存命だったと言うのである。
さて、ダークツーリズムに行くことにしましょう。
現場は、泊まっているホテルの目と鼻の先である。
起きると、朝の情報番組では、福岡のママ友支配餓死事件で、ママ友に懲役15年が課されたことを報じている。
支配があったと言う事実を、証明できればこの事は簡単だったと言うことだろうか。
まぁLINEなどいろいろ残っているだろうから。
その前に、朝食で腹ごしらえすることをしたい。
腹が減っては戦ができぬ。
さて、鹿児島で朝食に鶏飯を食べるのも、これが最後となるであろう。
なごりおしく鶏飯を食べる。
そのついでに、黒豚のマーボードーフもあったが、今流行のしびれ辛いのではなく、昔懐かしい広東風の甘いマーボードーフでよかった。
そして部屋に戻り、この記事について、新聞記事から文章を起こす。
ダークツーリズムでこの作業は結構辛いのである。
もっとも、音声入力を覚えてからは、かなり軽減されはしたが。
さて、いい加減ホテルを撤収することにしよう。
どんな時でも、撤収するときはわびしいものだ。
そしてホテルを出る。
先述の通り、事件現場であった西千石町はホテルの目と鼻の先なのである。
さて、では誰を出そうかと言う段になり、デカレンジャー出身のウメコもジャスミンも、昨日の時点で出演してもらっている。
仕方がないので、アンドロイドであり顔が笑っていないファラキャにでも出てもらうことにしよう。
そして、現場が具体的に西千石町のどこなのかに関しては、実はわからないのである。
もっとも、それを詳細に知ったとして、良い事は無いので、適当なところで撮影することにする。
これでダークツーリストは完了。
今回の決死出演は2名(累計11名)。