あの日のインパクト

それは札幌に勤めていた頃のこと。
勝手に居眠りスポットとして開拓していた資料室に「十勝毎日新聞七十年史」という本があった。

巻頭カラーには、昭和57年に開催されたグリンピア’82十勝博も乗っていた。

開会式では偉いさんがテープカットしている。
その後ろでは鼓笛隊やレオタード姿のバトントワラーも並んでいる。

偉いさん達や新聞記者は、やれ「健康美」だの「躍動感」だの言いつつ彼女たちの肢体を嘗め回すように見ていただろうか。
まあ昭和だと祭りになると結構バトントワラー出てたよな・・・ という記憶はある。

で、この十勝毎日新聞、昭和30年代以降の重大ニュースも掲載しているのだが、その当時起きた事件の紙面を一切ぼかすことなく掲載しているのだ。
このプライバシーのなさもまた「昭和」であった。

その中で、一つのインパクトをもって記憶しているのは、昭和34年に帯広市内で発生した実子殺害事件である。
粗い白黒写真の、幸せではなさそうな犯人である母親の顔が印象に残っていた。

せっかく帯広に寄り、図書館も開いており明日は朝もゆっくりなので、ここで1つダークツーリズムを入れることにしたい。

この事件が初めて報じられたのは、昭和34年10月14日の十勝毎日新聞である。
見出しは「親の愛情に飢えてか 八ツの女の子自殺 遺書残し睡眠薬飲む」。

帯広市内の小学校2年生の女の子が、10月12日午後5時頃、睡眠薬を飲んで昏睡状態になっているのを近くの人が発見、病院に収容したが翌日午前中に死亡した、というものである。

枕元には遺書があり、母親への感謝と「きかない子ども」であることに対する悔悟が書かれていた。

死因としては睡眠薬中毒が疑われた。
母親によれば「2~3日前から沈みがちとなっており、その時に睡眠薬を買って持っていたのではないか」という。

家庭事情としては、この7月に豊頃で炭焼きをしていたものが両親夫婦と娘2人の家族で帯広に引っ越してきて起業はしたものの失敗し、父親が家出をしていたのだという。

そして母親は帯広市内のスタンドバーに働きに出ることになった。
新聞の推測としては「母親が夜の仕事だから顔を合わせることも少なく、家庭が暗いことから自殺したのではないか」としていた。

ただ・・・
自分自身、小学校2年生の時に「睡眠薬を買って自殺する」という選択肢を取り得ただろうか。
少なくとも、睡眠薬を買えるほどの現金は持たされなかったし、死ぬために睡眠薬を使う、という選択肢も無かった。

やはり、翌10月15日の十勝毎日新聞でも同じような疑問を呈している。
「8歳の子供が遺書まで残して睡眠薬自殺なんてするだろうか?」

ちなみに、それまでの経緯としては、以下の通りであったという。

・10月10日(土):学校では学芸会があり、母親は新しい服を新調したが、長女は浮かぬ顔で学校を休んでいる。
・10月11日(日):母親は次女(死亡した少女からすると妹)を連れて糠平温泉に遊びに行き、長女は150円のお小遣いをもらって1人で留守番。
・10月12日(月):「学校を休みたい」と言ったが母親は気にも留めず。その朝、アパートのおばさんから水をもらって2~3杯飲んだ。睡眠薬はその時に飲んだ(医師の推定)。14時頃、髪を結いに次女を連れて美容院へ。長女はぐっすりねているのでそのままにして出て行った。17時頃、長女の顔色が変なのを隣の部屋の人が見て、病院へ連れて行った。

これを見て思うのは、12日に糠平温泉に行った際、母親と次女だけで行って長女が留守番、というのに誰も疑問を呈していないということである。
「私も連れてって」ぐらい言ったのではないだろうか。
このあたりからも、母親が長女をどう扱っていたか、ということが見て取れるような気がする。

本質的な話ではないが、帯広と糠平温泉を結ぶ国鉄士幌線は、この事件の3年前にあたる昭和31年にキハ04を導入し、混合列車からの貨客分離を図っている。

おそらくはこの事件を知る誰もが予想していたことではないだろうか。
結局、この事件は「自殺」などではなかった。
母親が長女に睡眠薬を飲ませたのである。

この事が報じられたのは、10月18日の十勝毎日新聞であった。

帯広署で母親は頑強に殺害を否定していた。
しかし、だまして睡眠薬を飲ませたことを自供したのである。

ではなぜ・・・?
新聞では貧困をその理由の第一に推定した。

また、ヒステリー持ちであったという母親は、父親の失踪時長女に無理やり警察に対する捜索願を書かせたのだという。
また、岐阜県から嫁いできたようであるが実家への手紙はやはり長女に無理やり書かせていたのだという。
学校としても、捜索願の文章は普段の長女とは思えないような文章だ、という見立てをしていた。

また、母親自身、ヒステリー持ちで周囲の評判も芳しくなかったようであり、逮捕されたときも「あの女ならやりかねない」という声が強かったという。
長女が睡眠薬を飲んで死にそうだという時に居眠りをしていたのだという。

また、働いていたスタンドバーの同僚も「子供達が死んでくれたらだの、人の悪口だの、あの人がいなければ波風もたたないのに」という評判であった。

で、それもこれも諸悪の根源は、妻と娘2人を残して家出した父親である。
この事件の当時は帯広市内で運転手をやっていたというが、ひょっこり現れて遺骨を取りに来て「複雑な顔で黙り込んでいた」という。

さて、逮捕されて留置場に入れられた母親は一体全体反省しているのか・・・?
10月19日の十勝毎日新聞によれば、どうもその様子はなさそうで、むしろ「異常性格者をそのままにあらわすような恐ろしい目付き」という論調であった。

ただ、供述によれば「これから冬になるのに服すら買えない状況で子供が足手まといだった」ということであり、また、周囲からの評判が悪いとはいっても、母親自身肺病持ちで健康に不安があったのだ。

「子供を道連れにして自分も死ぬ」・・・そのように考えるのも無理からぬ状況であったのではないだろうか。

ではなぜ長女だけ?
母親の見立てでは「次女はどこかにもらわれて行くだろうが、長女はきかない子だから」ということだった。

遺書にしても、近所の子供と喧嘩をした時に詫び状を書かせたものを転用したものだという。
どこまでも計画ずくの殺害であった。

そして検察も第一審の準備を進めている所であった。
そして11月7日に起訴することに決まった。

その11月7日の午後。
事件発生の日と同じく雨が降っていたその日・・・
独房に入れられていた母親が、首を吊って死んだというのである。

まさにこの顔写真こそが、札幌で勤務していた時に見た「十勝毎日新聞七十年史」で見た顔である。
新聞記者をして「異常性格者」と言わしめた印象が自分にも伝わってきたということであろうか。

そもそも、帯広刑務所拘置支所でも「自殺の恐れあり」と注意はしていたのだという。
ちなみに現在、刑務所や拘置所で自殺が発生すると担当看守から管理職まで責任を厳重に問われ、昇進の望みも無くなるという。
それで、死刑もかつての前日言い渡しで身辺整理をさせていたものが、当日言い渡しに変わったのだという。

母親は、独房で日記を書いていたのだという。
長女を手にかけて殺めたことに対する悔悟、次女への思い、そして夫への恨み言。
夫に対しては「好きなことをして私達のことは何も構ってくれなかった」ということが不満だったようである。

結局、裁判が開かれることはなくなった。
今で言えば「被疑者死亡のまま書類送検」となるだろうか。

さて、ダークツーリズムへと赴きたい。

今日の「おおぞら4号」は帯広を9時53分の発車なので余裕を持って行けるだろうと思っていたら、何とホテルのコインランドリーの洗濯物が生乾きなのである。
電気式ならまあそうなるかと思っていたが・・・

仕方がないので8時過ぎにホテルを出てコインランドリーへ。
しかし帯広駅の近くにあるのになぜ高架の下を歩きことができないのか。

結局、縫うように条里を歩きコインランドリーへ。
50分コースならどうにか間に合うだろう・・・
決死モデル:チームR小沢仮面ライダーアギト出身)

さて、現場へ行きましょう。
現場へは、大通りを歩いて北上するだけである。

帯広の場合、札幌と違って「大通」は東西に走っている。
それで、「西x条南y丁目」という表記になるのだ。

そして現場へ。
詳しい番地が書いていないので、この丁目のどこにあるのかは分からないが、狭そうなアパートが並んでいる。
そして賃貸不動産会社の看板が出ている。
決死モデル:チームPユウリ未来戦隊タイムレンジャー出身)

もしかしたら、今でもそこにはシングルマザーの苦しい暮らしがあるのかも知れない。
それでなくても、北海道という経済の冷え込んだ地域で、コロナ禍で・・・

残された2歳の次女ももう還暦を過ぎているはず。
その後の人生は幸多きものだったであろうか。

さてこちらは帯広を発ちますか・・・

 

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