じぇじぇじぇ!アルハラ報復殺人!?

「あまちゃん」と言えば、「素朴で愛嬌たっぷりのおばちゃん達が酒の力を借りてドス黒い欲望をさらけ出す会合」という海女クラブというのがあった。

その「あまちゃん」が放映される42年前、「酒の力を借りてドス黒い欲望をさらけ出した結果、殺されて腐乱死体になってしまった」という事件が、他ならぬこの久慈で発生している。
ただし殺されたのは「素朴で愛嬌たっぷりのおばちゃん」ではなかった。

1971年、英領インドから共にイスラム陣営として独立したはずの東西パキスタンはこの時仲間割れを起こしており、3月26日に至り東パキスタンは地下放送で「バングラデシュ」として独立を宣言した。
また、国内ではその日、膨張する首都圏人口を収容するべく多摩ニュータウンが入居を開始している。

そんな世情の昭和45年の年度末、岩手県の北端にして「海女の北限」として知られた岩手県の久慈で、定年間近の役人がなぜか行方不明になるという事件が起きていた。

これ以降の記述は「苦闘 昭和の事件簿(岩手の重要犯罪第2巻)」によるものである。

明日から「昭和46年度」が始まろうという昭和46年3月31日の午後のこと。
久慈警察署に一人の主婦から捜索願が出された。

「うちの夫が昨日、役所に出勤したきり帰ってこない。
昨日は転勤する人の辞令もらいに二戸に行くって言ってたけど、酒を飲んだ日でも夜10時には帰ってくるはず。
今朝、役所に電話しても出勤していないという。
親戚や友達に聞いてみても知らないという。もう警察に探してもらうしかないと思って来た」
この夫は52歳であり、県の土木事務所で課長補佐を務めているというそれなりの地位の役人であるという。

この届け出に対し、前掲書の表現をそのまま引用すると、

「これを受理した久慈警察署は、理由もなく公務員が行方不明になるということは何か重要事件が潜在していることも憂慮されたので・・・」

警察における、公務員への絶大なる信用が垣間見えようというもの。

同僚などの証言から、行方不明になった課長補佐の足取りは以下の通りであったようである。

  • 3月30日18時〜20時、部下の結婚披露パーティーに出席し酒を飲む。
  • 同日20時20分頃、久慈市本町通りの新聞販売店の店主が、長内橋方向へ向かう課長補佐を見ている。
  • 同日20時20〜30分頃、長内橋を渡りきって、課長補佐宅へ一人で歩いていくのを複数の人が目撃している。

それ以降、杳として行方不明になってしまったのである。

ところでこの課長補佐、普段どういう人となりだったのか。
同僚曰く「酒癖が良い方ではない」。

そこで警察は、以下のような捜査方針を立てた。

  • 酒での喧嘩による殺人
  • 交通事故隠しの死体遺棄
  • 泥酔による自己過失

ちなみに本事件のソースとなっている前掲書によれば、この事件の4年前になる昭和42年に、岩手郡滝沢村の国道4号線で、ひき逃げ死亡事故を隠そうとして死体遺棄した事件が発生している。

課長補佐の捜索には、警察だけではなく同僚の土木事務所職員、消防団、一般市民までが加わったが、全く手がかりがつかめなかった。

しかし、昭和46年の年度始め4月は「補佐がどこに行ったか分からない」まま、無駄に過ぎ、北国の遅い桜の季節もとうに過ぎ去ってしまい、梅雨の声すら聞こえ始めた頃・・・

そもそもが酒癖の悪い人であり、関係する誰もが薄々予想はしていたのではないだろうか。

昭和46年5月27日の岩手日報では、件の補佐が死体で発見されたことを報じている。

死体が発見された場所は、長内橋を渡ってすぐの所にあるガソリンスタンドの脇にある従業員宿舎の天井であり、死後相当の日数が経過しており腐乱した状態で発見された。

犯人は、その従業員宿舎に住んでいた従業員で、盛岡出身の20才になる男であった。
なぜ県都盛岡出身の男が久慈くんだりまで? というのは、その男の姉が久慈のガソリンスタンドの店長の所に嫁いだからである。

盛岡の私立短大を中退してブラブラしていた男は、姉の伝手を頼って久慈で働てもらうことになったということのようである。

そしてその男と課長補佐は、飲み友達だったという。
昭和26年生まれ20才と大正8年生まれ52才の飲み友達。親子ほども離れていたが、元々はGS従業員の同’僚が課長補佐の知り合いで、その伝手で知り合い、意気投合して飲むようになったという。

それがなぜ殺し合うまでになってしまったのか。

それはひとえに、生来の課長補佐の酒癖の悪さから、としか言いようがない。

そのあたりは新聞以上に前場書の方が詳しいが、課長補佐は短大中退のこの若者に対し、
「若いのに煙草なんて吸うのか」
「部屋も汚いし・・・」

若者が話題を変えようとしても、
「怒れるもんなら怒ってみろ? ああん?
大体にしてスト一ブが暑すぎるn・・・」

ここで若者の何かがはじけ飛んだ。

スト一ブの火力を弱めようとした課長補佐の後ろからベルトでひと思いに課長補佐の首を・・・

いかに酒乱の老害であるとはいえ、死体となって自分の前に転がっている、となったらもうただではいられない。
見つかったら人生は破滅。

まずやったことは、死体の身元を隠すために服を脱がせて押し入れに隠すということ。
死体は押し入れに隠し、服は翌朝近くの河原で焼いた。

かといって死体をそのままにしておけば腐りだし死臭が充満するに決まっている。
しかし、5月28日の岩手日報では「裸にすればミイラになると思った」と報じているのだ。

3月30日に殺してから、5月26日に見つかるまでの経緯は、4月初めごろ郷里の盛岡で自殺未遂をした以外のことは新聞では全く書いていないが、前掲書ではそのあたりが詳しく書かれている。

最初は、ガソリンスタンドの主人である姉の夫を何とか言いくるめて車を借り出し、この日の社会面トップでもヘドロ問題が報じられている盛岡郊外の四十四田ダムまで死体を運び出して沈めようとしたのだという。
しかし、警察官や近所の人が入れ代わり立ち代わりやって来るので、その機会を逸失してしまった。
4月2日に至り、姉の夫に発見されそうになったが、まだ匂いが出ていなかったので発見されなかった。

この件で「押し入れは危ない」と思ったのか、死体を天井裏に隠すようになった。
しかし5月に入ると死臭が激しくなりだした。
それで脱臭剤を買ってきて死体にかけ、一時的に匂いは消えたのだという。

しかし下旬にもなるとそれすら効き目がなく、その20歳店員の部屋の隣で着替える女子従業員の間でも匂いが不満の種になり始めていたという。
「あの人の部屋が汚部屋だからじゃないの?」
事実、老害の課長補佐が説教するまでもなく、布団は敷きっぱなしになっておりウィスキーの瓶などが散乱している状態だった。

そして5月26日水曜日の午後。
姉の夫である店主が「今日は休みだし、部屋を掃除しようか」
生ごみやコップを片付けても、なお匂いは消えない。

それで、押し入れの障子を外して換気を良くしようとすると、その天井に丸いシミ。

「雨漏りでもするのか?」
「・・・くぁwせdrftgyふじこ」
「あ?」
「ゆ、行方不明になってる課長補佐です」
「ちょ・・・ おま・・・」

さて、そのダークツーリズムは、三陸鉄道の終点となる久慈である。

16時47分、ついに久慈駅に到着。三陸鉄道163kmの旅が終わる。
宮古では雨だったが、久慈ではベタ雪に変わっていた。
決死モデル:チームWB嵐山

向こうのホームでは、八戸線のキハE131系が待っている。
八戸線と言えばキハ40というイメージだったが、あの頑丈なキハ40もついに引退してしまったようである。

三陸鉄道の久慈駅は、盛や釜石同様、独立した箱型の駅舎がある。
中には蕎麦屋も入っていて「あまちゃん」フィーバーがかれこれ6年間続いているような状態となっている。

駅前に出ると道がぬかるんだ状態になっていて歩けたものではない。
それでも、「あまちゃんハウス」という、あまちゃん記念館のようなものがあり、その閉館は17時だというので、残り10分で行ってみることにする。

あまちゃんハウスは久慈駅前にある。
何とも景気の悪そうな古びたビルの中にあり、撮影で使われた諸々が飾ってある。
BGMは「暦の上ではディセンバー」がエンドレスで流れ続けている。

そして北三陸鉄道の北三陸駅も飾っていた。

ただ、一つのドラマでどれほど活性化できるものだろうか。
・・・とはいえ、夕張なんか今でも42年前の「黄色いハンカチ」で持っているような部分もあるから、ないよりはマシなのか・・・?

そんなことを思いつつ、いったん駅前に戻る。

そして「あまちゃん」の聖地となった久慈駅前デパート。
決死モデル:チームYジャスミン

今は廃墟のようになっているデパートであるが、建築は昭和40年であるという。
つまり、今回の事件の被害者となった課長補佐も、このデパート・・・それも全盛期を知っていたということになる。

さぞや賑わっていたであろう駅前デパートの裏を通り、ほろ酔い加減で夜の本町通りを長内橋方向に歩いて行ったであろう。

現在でも、久慈駅から長内橋へ向かう本町通りは商店街になっている。
この商店がいの新聞店主が、実際に課長補佐を目撃しているのだ。

そして長内橋に差し掛かると、件のガソリンスタンドを見渡すことができる。
ガソリンスタンド自体は既に新しくなっていたが、事件が発生した別棟は当時のまま残っていた。

3月31日17時過ぎ。
48年前の今頃は、久慈警察署に捜索願が出され、警察官は現場検証し、役所の同僚や近所の住民が総出でが補佐を探していたであろうか。

現在では倉庫として、無造作に物が置かれているようであった。

ところで、決死してたら雪道を後ろから歩いてくる老人がいた。
こちらが引き返すと、老人はしばらくこちらを見ていた。
明らかに「お前、ここで何があったか分かってて撮ってるな?」という眼だった。

さて、ここでまたあまちゃんフィーバーを6年間も維持し続ける本町商店街を引き返すことにしようか・・・
久慈の日も落ちかけていた。

さて、八戸行きの発車は18時15分。
それまでに、三陸鉄道の久慈駅にある蕎麦屋で夕食でも・・・ と思ったら既に閉まっていた。

仕方が無いので、さして食べるものもないままJRの久慈駅で発車を待つことにする。釜石駅同様、待合室が暖かいのはJRの駅の方である。
ところで、JRの駅の待合室の方は「あまちゃんフィーバー」とは無縁で、昔ながらの琥珀や小久慈焼きを前面に押し出している。

久慈駅の窓口で切符を買おうとすると、
「八戸? じゃ券売機で買って」とつれない。

兎も角も18時を回ったので改札が始まった。
JRの駅舎からは構内踏切? を渡ってホームへ行く形となる。
薄暮状態で、このような状態が一番撮影が難しい。
決死モデル:チームP桃園

そして、2両編成のキハE131の中の人となる。
本八戸と八戸以外では、2両目のドアは開かないというので、2両目に座っていれば暖かいままのはずである。

そして18時15分、八戸行きは出発。
夜の八戸線を北上する。

陸中八木、種市、宿戸・・・ 各駅に積もる雪は、パウダースノーになっていた。
まるでニセコで見るようないい雪質である。

県境を越えた階上はしかみで列車交換のため6分停車だというので、ちょっとホームに降りてみた。
踏みしめていると、いかにもパウダースノーである。

しかし向こうから対向車の久慈行きキハE131が来たのでさっさと車内に戻る。
八戸線はJR東日本でも最も遅くまでタブレット交換をしており、小さい駅にも駅員がいた。
しかし2000年代中頃、ついに自動閉塞化して駅員がかなりいなくなってしまった。

三戸郡階上町の中心地である階上駅も、いっぺんに無人化し、駅舎も有人化時代のかけらも残っていないような味気ない駅舎になってしまった。

そしてなおも北上し、八戸市に入る。
そして本八戸を過ぎ、八戸臨海鉄道の線路を右手に見ると八戸が近づく。

そして八戸に到着。
決死モデル:チームRナオミ

有名な話であるが、八戸駅は八戸市の中心街にあるわけではなく、バスでかなり行った所にある。
それで、駅周辺に特段の店はなく、ホテルに付随する形で数店あるといった程度である。

これらの店のどこかで、下北半島から来る21時55分発のバスタ新宿行き高速バス「しもきた号」を待つことになるのだが、駅のホテルに付随する飲食店は21時30分で閉店してしまう。
それでも、暖かい店で待つ価値はプライスレスなので、ここで八戸ラーメンでも食べながら過ごすことにする。
そして拙ブログも編集する。

そしていい時間になったので、寒い中八戸駅東口5番乗り場へ行くことにする。
既に、何人かの人が待っていた。

・・・と、バスがやってきた。
しかし、車体を見るとどうやら弘南バスであるもよう。
何だってまた津軽衆の弘南バスが南部の八戸で仕事をしてるのか・・・?

あれは、22時20分発の「えんぶり号」だそうで、青森駅を出発し、野辺地と八戸で客を乗せてバスタ新宿へ向かうらしい。
何よりこのえんぶり号、シートが4列だというのだ。
それはつらい・・・

尚も待っていると、国際興業の観光カラーのバスがやってきた。
国際興業のバスか、はたまた国際興業系列の十和田観光電鉄か。

どうやら国際興業本体のバスのようだった。
悲しいことに座席にはコンセントが付いていない。

兎も角も、今回の旅を終え、国際興業のあのアナウンス時のジングルを聞きつつ、一路バスタ新宿へ・・・

 

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