現実への出港

今日の伊豆諸島の天気は曇りがちで、一時的に雷を伴う可能性がある雨が降る見込みです。気温は摂氏27度前後で、風は西から南西にかけて最大風速が約35km/hになると予想されています。午後には強風が吹くことがあり、海上では特に注意が必要です。

波の高さは、日中で1.6メートルから最大5.4メートルに達する見込みです。波は次第に高くなり、特に午後から夕方にかけて注意が必要です。風と波の状況から、海のコンディションはサーフィンやボート活動にはやや厳しいものとなる可能性があります。

5時ごろに目が覚めると猫が足元に乗っている。
もはやそこまで警戒心を解いてくれたか。

そのまま起きることにする。
今日で内地も終わりか・・・

あとは撤収準備。
向こうでは何が待ってますやら・・・だ。

朝食は納豆ご飯と目玉焼き。
NHKではオードリーのあと、高野山とか弘法大師とかに関する番組。こんな静謐感のある番組に安心するのは老化か。

今日は1日遅れの出港日。
8時台の準急で行くことにしよう。

父上と母上は暖かく見送ってくれた。
まあそれもこれも距離感があるからだろう。
同居なんかしていたらとてもこうはいくまい。

ともかくも西武拝島線の準急に乗る。
ラッシュが過ぎたので車内はガラガラ。ガララーガ。

新宿線と合流する小平で急行を先に通す。
座れそうもないのでそのまま準急に乗っていく。

そして高田馬場で山手線に乗り換え。
お土産は既に伊勢丹で買ってるのでもう東京駅には寄らない。
新宿でコーナーに座れた。

そして山手線を半周して浜松町駅へ。
早速小笠原に向かうと思われる人の群れがスーツケースを引いて竹芝に向かって歩いている。
ちなみに、今日竹芝から船に乗る客の100%は小笠原行きだ。なぜなら、大島方面は台風のうねりで全便欠航だからだ。

まだ9時半なので、しばしポートシティのソフバン本社のタリーズで一休み。

そして10時も過ぎたので竹芝桟橋へ。
お見送りデッキの向こうには小笠原丸の青赤のファンネルが聳え立っている。

乗り込むと小学生らしきグループ。
夏休みで小笠原ってことかね。

そして11時、汽笛とともに竹芝を出港する。
子供たちのお見送りが多い。
青空にベイブリッジが映える。

さて、7階のラウンジで涼しいところで昼食でも…と思ったら、すべての席が埋まっている。
なるほど、これが着発の時期のおが丸だ。まして、前の便は休んだので、その分の客もいる。

結局、6階の1番後ろのデッキに座ることにする。

12時になったので、竹芝のファミリーマートで買った納豆巻きとパリパリサラダを食べることにする。
既にAmazonでは炭酸水が届いているらしい。

食べ終わったら、早速ベッドに戻ろうかと思ったが、電波のあるうちはしばらくここにいることにしよう。
その方が食べた物の消化の上でもいいだろう。

東京湾にはいろんな船が行き来している。
中には空母なんてのもある。あれは横須賀の海上自衛隊だろうか。

そして、房総半島を過ぎたあたりでベッドに戻ることにする。
今回は453-12で上段なので楽だ。
今日の2等寝台は子供たちで賑やかだ。

おが丸乗船時の例によって、こちらはKindleの本でも読むことにしよう。

次に読むのは「大洋ホエールズ誕生!」という、大洋漁業の創業の地である下関に住む人が書いた本。

読んでみると、実は「大洋ホエールズ誕生前!」という本があったのだという。でもそれはKindleには無かったような気がするのだが。

ともかくも、この本は、日本のプロ野球はセ・リーグとパ・リーグの2つに分裂するあたりから始まる。
終戦となり、正力松太郎としては、日本のプロ野球をアメリカのように2つのリーグにしようと考えていたようだ。
そのための前段階として、8チームから10チームに増やそうと言う考えだったようだ。
ところが、別府星野組だの大洋漁業だのいろんな有象無象の会社がなだれを打って申し込みにかかる。中には、小田急電鉄とか松坂屋なども噂に登っていたらしい。

そして、本拠地球場の建設となるわけだが、下関というのは、関門6市(下関・門司・小倉・八幡・戸畑・若松)の中で、唯一本格的な球場がなかったらしい。
それで、当時畑となっていた下関市向洋町に新球場を建設することになったらしいのだが、何しろ食糧難の時代の畑だったので、耕作者による反対があったのだが、それを押し切って建設したのだと言う。耕作者には、それ相応に補償はあったのだろうか。

ともかくも完成した新球場は、当時の野球場研究の記事によると、「市電の幡生行きか東駅行きに乗って、東駅で降りて15分のところにある。下関の市電は各停留所で切符を売っており、車内で買うと倍額取られる」と興味深い記事がある。現在のサンデン交通の前身の山陽電気軌道だと思われるが、そんなルールがあるとは知らなかった。
あと「東駅」とはどこの駅だろうか。現在では下関駅の東隣は幡生駅だが、幡生駅と下関駅の間にあったのだろうと思う。

ともかくも、太陽漁業はそうやって加盟の準備を進めるわけだが、そもそもプロ野球拡大のために正力松太郎が毎日新聞を誘ったのだが、その正力松太郎が公職追放でいなくなったら、突然読売新聞は毎日新聞の加盟に反対しだした。中日新聞などもそれに同調した。
巨人軍というのは、こうやっていとも簡単に寝返るのは、西日本パイレーツ追放の時もそうだった。なるほど「死ね死ねくたばれ」と替え歌されるわけだ。
これ以外にも、太陽ロビンスが毎日新聞に売りを持ちかけたけども断られたということで、毎日新聞の参入に反対したのだという。
そして、阪神タイガースは毎日の参入に賛成だったのだが、別のリーグに行ってしまうと巨人阪神のドル箱試合が無くなってしまうので、反対に寝返ったのだという。
こうやって、各球団の思惑が入り乱れるわけだが、現在のセ・リーグとパ・リーグというのは、「毎日加盟反対派」と「毎日加盟賛成派」ということだったのだ。

ともかくも、昭和24年の年の末に、広島カープや西日本パイレーツと共に大洋漁業もセ・リーグの加盟届けを出すことになる。
ちなみに、国鉄スワローズがセ・リーグに加盟したのは年が明けた昭和25年の1月であるという。

そして、チーム編成となるわけだが、他球団でもあったように、仁義なき引き抜き合戦であったようだ。大洋の場合は、東京と大阪の支社網を駆使してスカウトに当たらせたのだと言う。大阪などは毎日北新地の店にすき焼きを用意して、いつでもすき焼きを食べれるようにしていたというからすごい。

それでも、巨人軍からは中島治康と平山菊二の獲得に成功した。それは平山は地元の下関商業の出身であるという事と、当時の巨人軍では「三原派」「水原派」があり、ベテランの三原派はどんどん放出されていったということもあったようだ。
その辺は、西日本パイレーツに青田昇が行くの行かないのという話にも載っていた。

そして、選手たちは下関入りするわけだが、多くの下関市民の歓迎があったのだという。

ところで、大洋ホエールズは大洋ホエールズなわけだが、球団としては「まるはホエールズ」と呼んで欲しかったらしい。それが定着しないことが悩みの種だった。
しかし、このまるはと言う正式な球団名称は、選手からも、下関市民からも「田舎臭い」とは評判は良くなかった。

それに何より、試合結果を掲載する新聞には「まるは」の活字が無い。

そして、セ・リーグの開会式を迎えるのだが、オープン戦のトーナメント大会で優勝した西日本パイレーツと違って、1回戦で松竹ロビンスに負けた大洋ホエールズは野球熱が上がらず、セ・リーグの共通の入場料100円より安い金額で球場を解放しないとお客さんが入らないような状況だったという。

開幕戦には国鉄に勝ったものの、入場客数は2000人程度であったという。当時の東京の人口は700万人に対して、下関は20万人。
これでは興行にならないと頭を抱えるのも無理はない。
そのことに関しては、巨人軍の総監督に棚上げされていた三原脩も指摘していた。「今の日本にあってプロ野球の試合を常打ちできるのは、東京と大阪しかない。それ以外の二流都市はマイナーリーグ的な存在でしかない」
当時は、福岡39万人、広島29万人、下関20万人という時代だった。

さて、18時半になったので夕食に行くことにしよう。
今日の2等寝台は4階なので、レストランにも行きやすいが、レストランはものすごい行列だ。
そして船は揺れているので、夜間開放でも本を読むのはまず無理だろう。

ちなみにエリーと中の中の人

ともかくも、夕食はかき揚げそば。

その後、4階のロビーでiPhoneに入れている「事件・犯罪大事典」をOCRしながらハイボールを飲む。
そこそこ揺れているが、作業できないというほどではない。
それで、結構作業が進む。

ところで、手話サークルの人で、おがさわら丸の船員の人がいた。
この船の帰りの便は、800人の乗船でもう1席も空きがないのだそうだ。
それでも、14日に乗れなかった人を運び切れないのだという。そうすると、3日どころか1週間延泊という人もいるのだろう。

ベッドに戻りて、適当に本を読みつつそのまま寝入ってしまう。

今日の決死出演は3名(累計38名)。

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