小笠原諸島は前線が通過し、高気圧に覆われようとしている。
今日一日は曇りで推移するようだ。
最高気温は27℃になるという。
帰りのおがさわら丸の2等寝台の中では、3時ごろから寝たり起きたり。
完全に生活のペースが破壊されているのではないか。
昨夜から引き続き読んでいる「昭和天皇 最後の侍従日記」は、他の日記に比べて読みやすい。
それは、共同通信の取材班が解説を充実させているからであろう。
昭和58年の1月に中川一郎が自殺したのに対し、慰労の品を送るべきかどうか検討した同じ月に、65歳の東宮侍従長が新宿のトルコ風呂で急死するという事態にもなっている。
この辺を入江相政の日記と読み比べてみると、中川一郎の自殺に全く触れておらず、東宮侍従長の急死に関しては「新宿の外出先」とだけ触れている。
スキャンダルをスキャンダルとして読ませているのは、やはり共同通信の取材班の手が入っているからだろうか。
そして、この翌月の昭和58年2月には浩宮さま(現:天皇)のオックスフォード入学の話が出てくるが、「寛さん(三笠宮寛仁親王)は、イギリスに一番詳しいと思い上がっている」という記述が出てくる。昨日までその三笠宮殿下の娘である彬子女王の「赤と青のガウン」を読んでいただけにいろいろと趣深い。
そして、昭和63年になると、天皇陛下の御病状に関しての記述が克明になっていく。
昭和64年1月7日に関しては「崩御」とだけあっさり書いている。
平成の御代になると毒舌の度合いは増していく。
紀宮様の成人の儀でご本人からお礼の挨拶がないことに関して「両陛下は何も思わないのだろうか」と不満を述べている。
そんなことをしていたら、7時になった。
4階のレストランも、7階のラウンジもオープンしたので、朝食にすることにしよう。
4階のレストランは行列ができている。
では7階に行くことにしよう。
7階のデッキに出て、その上のデッキに登ると、バードウォッチングの高価なカメラで鳥を追っている。
こんな島なんて観光で来る程度が丁度いいだろう。
7階のラウンジも行列ができていたが、もうここで食べることに肚を決めよう。
ということでサンドイッチセット。
この2日間風呂にも入っていないので、両隣に人がいる状態で座るのも忍びないので、立ち席でさっさと済ませることにする。
そして、しばらく4階のロビーでゆっくりしている。
揺れはあまりなく、下を向いて本を読んでも大丈夫な程度。
引き続き「昭和天皇 最後の侍従日記」を読むことにする。
そして平成3年に退職し、引き続き「侍従職御用掛」として昭和天皇の遺品整理の仕事に当たることになる。
8時が過ぎたのでベッドに戻ることにする。
そして、前に図書館からコピーした「小笠原 南海の孤島に生きる」を読むことにする。
これは、小笠原が返還されて1年が経過した昭和44年に発刊された本で、小笠原返還当初のことを書いている。著者は、小笠原高校の校長とNHKのプロデューサーの共著である。
やはり、アメリカから日本になるという事は、非常な混乱を伴うものであったようだ。
また、欧米系住民にとっても、流れ着いた時の階級で格差社会があったようで、身分が下だと思われていた階級の人は、さっさと日本名に改名したのだそうだ。
返還に際しては、そのようなお互いにとって複雑な事情もあったようだ。
そろそろ10時も近づいてきた。
後は到着を待つだけであるが,その前にシャワーを浴びておくことにしよう。
シャワーを浴びてから6階のデッキに出ると、すでに父島の島影は見えている。
そして、観光客の一団が集まっている。
スマホを見ている人もいるが、乃公のスマホには全く電波は入ってこない。
二見湾が見えたかと思ったら、灰色の船が停泊している。
何かと思ったら、海上自衛隊の艦船のようだ。
「4002」とあるがなんだろうか。
父島の発電所や小学校が見えたあたりで、やっと電波が入ってきた。
そしてベッドに戻って下船の準備。
11時過ぎに到着する。
今日もまた出迎えの人で賑わっている。
帰宅する途中、小祝で鍋の材料を買うことにする。
プチニンニクとキムチと豚肉は買うことができた。
賑わう表通りを通って帰宅することに。
ここで一旦前半は終わり。
ここまでの決死出演は2名(累計34名)。