You‘re so far, so far away

北朝鮮KCTV「録画報道:各地単位で大衆的技術革新運動を力強く進めている」より🇰🇵
まずは元山靴工場にて。
先軍朝鮮・太陽朝鮮では「신발」と「구두」をどう使い分けているのだろうか。

こちらは平壌香料工場。
製品名はそのなもズバリ「香水」。

これからの決死旅行はダークツーリズムが中心になりそう。
そのような中で、盛岡に行く用事ができたのでまた1つ。

今回は、昭和33年に盛岡市内で発生した調理師一家鏖殺事件に焦点を当てることとする。

その事件が最初に報じられらのは、昭和33年4月18日の岩手日報である。
盛岡市の寺町でもある新馬町の長屋で、一家3人皆殺し事件が発生したというのである。

その18日の深夜2時ごろのこと。
「誰か来てーっ!誰か来てーーっ!!」

その長屋の住人の金切り声が聞こえてきた。
眠りを妨げられた隣の住人は何事かと起き出して「どうしたんですか?」と聞いてみる。
長屋の他の住人も起きて集まりだしていた。

中から「何でもないんです」と若い男の声が聞こえた。
きっとこの家の19歳になる養子だろう。
周囲の住民はそのように自ら納得して再び眠りに就いた。

その朝のこと。

件の悲鳴が上がった家は、いつもなら朝6時には起きているはず。
ところが今朝に限って全然起きてこない。

子供たちが中を覗いてみると「血が!」
見ると、レストランの調理師である60歳の主人、58歳のその妻、そして19歳になる養子の一家3人が血まみれで死んでいるではないか・・・!

急遽、盛岡警察署に通報された。

そういえば、夕べ若い男が泊まりに来ていたような・・・?

ではその犯人は誰か?
それを割り出すのは容易であった。
翌4月19日の岩手日報では、盛岡信用金庫の職員を有力容疑者として報じ、警察は家宅捜索にも入っている。

内側から鍵をかけていたということから、計画的な犯行であると断定した。

近所の主婦の話によれば、そういえば夕べ「青山町行きのバスを逃したので泊めてほしい」と若い男が訪ねてきたのだったという。
当時、現在で言う岩手県交通滝沢営業所はなく、岩手中央バス青山町営業所があった。
現在のビッグハウス青山店の場所である。

その容疑者の勤務先である盛岡信用金庫材木町支店では、朝は普通に出勤してきたのだという。
そして、集金に出たまま姿を消したのだと証言した。

行きつけのバーのマダムによれば「昭和31年月ごろ店を開いてから月に3度ぐらい来ていた。よくマージャンをしていたが態度は普通だった」という。

それ以降、犯人の足取りは杳として消えていった。

昭和33年4月21日の岩手日報では、それまでに知り得たことをまとめて報じている。

まず、現場から菓子折りが発見され、信用金庫の男が泊まったのは明らかであるとされたこと。
そして、動機としては賭けマージャンによる借財がかさみ、職場の金を使い込み自暴自棄になったのではないかとされた。

その男の職場である盛岡信用金庫材木町支店の家宅捜索を行うと、被害者名義の預金通帳が出てきた。
この預金通帳に書かれている金額は店の台帳にはなく、偽装したものであることは明らかだった。

その盛岡信用金庫の理事によれば、容疑者の男はそんな悪い噂のない男だ。入社試験では70人中8番の成績であり縁故採用ではない、とコメントしている。

男の足取りはといえば、犯行の日の18日正午頃に東大通り(東北銀行~サンビルのあたり)で下橋中学校時代の友人と会ったのが最後で、都南村飯岡や都南村乙部の親戚宅にも立ち寄っておらず、おそらくは仙台か東京かに高跳びしたのではないかとの見立てがなされた。

翌4月22日の岩手日報でも犯人逮捕の報はない。

こういう時、新聞に出てくるのは推理作家などによる犯人の推理である。
ただ、よく出てくる割には捕まった時に分かる真相とは精度が低いように思える。
ただ単にのぞき見根性を満足したいマスゴミ記事であるのは確かだ。

元県警本部探偵長
現場を見てないので分からないが、初犯者らしい幼稚な手口。
いくらかけマージャンで金に困ったからといって、3人を一度に殺すなんて、手慣れた者ならそんなことはしないだろう。
おそらく犯人は東京方面に高跳びしたはず。しかし昭和13年に岩手殖産銀行員を睡眠薬入りの鍋焼きうどんで眠らせて金を強奪して、その後川井村の製材所で行員として働いていたという例もあるので気を付けないといけない。

岩手大学学芸学部助教授
最近の青少年の非行は「若年化」が著しい。「自分はこれぐらいならやれる」という過信や打算性のなさがこのような犯罪を引き起こす。
戦後の教育は個人の要求ばかりを尊重し、社会への迷惑顔ソロ化になっている。

作家 森荘已池氏
この世代にありがちなドライな性格。
罪悪感は非常に低い。
東京は安全に身を隠せるところも多いだろう。
金がなくなったら自殺ということも考えられる。

その犯人逮捕が報じられたのは、事件から1か月が経とうとしていた5月15日の岩手日報の一面トップである。

男が捕まったのは東京であった。
その間、後楽園球場で野球を見たり、佐渡島や熱海や京都まで行って豪遊していたのだという。

逮捕となった上野のホテルでは「手配書を見たから分かった」という。
その男は「誰かが来たら、その男は知らないといってくれ」とフロントに頼んでいたのだという。
そして、男がよく飲んでいたバーにも「あの人は殺人犯だから来たら教えて」と頼んでいたという。

そして、どこへ行ったか、そしてどのくらいの金額を使ったかについては「死への花の旅」というノートに克明に書いていたのだという。
そのあたりは、なんだかんだで金融機関の職員らしさなのであった。

男の身柄は、上野を9:50に出発し、盛岡に19:20に到着する急行「みちのく」で押送されることとなった。

そのように新聞で報じるものだから、夕方の盛岡駅には、盛岡を震撼させた殺人犯を一目見たいと人だかりができることになった。
昭和33年5月16日の岩手日報では、犯人の盛岡への護送の様子が報じられている。

東北本線で初めての特急「はつかり」が運転開始するのはこの年の10月のこと。
まだ当時は急行の「みちのく」が東京と盛岡を結ぶ最速の列車であった。

列車は定刻に8分おくれ19:28に盛岡に到着、
物凄い人ごみの中を自動車で盛岡警察署に護送され、取り調べを受けることとなった。

当時は、新聞記者が直接犯人に取材することもできたようだ。

Q なぜ殺した?恨みでもあったのか。
A それが一番大きい。
Q なぜノートに書き残したのか。
A 書いていれば自分が死んでもみんなが分かると思って。
Q 現在の心境は
A 自分の個人のことで世間をこんなに騒がせて申し訳ない。

結局、裁判ではこの男の死刑判決が下されている。
計画性のある強盗殺人で3殺では、死刑を逃れようがなかった。

「盛岡信用金庫100周年記念史」で、この事件をどう扱っているかというと、年表には一切載っていない。
しかし、通史の中で「昭和33年は<もりしん>に色々なできごとのあった年であった」と、何かを仄めかす書き方はしている。

さて、ダークツーリズムへと赴きたい。

高速バスの中で目が覚めたら3時台だった。
Google マップで確認すると、仙台のあたりにいるようだった。

今iPhoneやiPadを広げて何かを見ようと思ったら、周囲に迷惑をかかるような気もするが、まぁ周囲はみんな寝てるのでさほどのこともないだろうと都合よく解釈しいろいろページを見ることにする。

半分うとうとしていたら、すでに盛岡南インターチェンジを出ており、盛岡の南側に入っていた。

すでに盛南大橋を渡ろうとしている。
もう降りる準備をしないといけない。

果たして、盛岡駅東口に到着。
盛岡は小雨だった。

盛岡駅の裏にある岩手県立図書館が開くのは朝の9時。
それまでにダークツーリズムを済ませてしまうことにしたい。

バスで行こうと思えばいけないこともないと思うのだが、岩手県交通のホームページで調べてみたら、流し台までないと言う。
それならもう歩いたほうが早い。

小雨のを不来方橋を渡って大沢川原方面へ。

そして中津川を渡り、杜陵小学校の脇からホットライン肴町の脇を横切り、バス通りを横切って、盛岡劇場の近くへ行く。

昭和33年4月18日の岩手日報の記事に書かれた現場の地図から、現在の地図を推測しようとしたが、何しろ北が上に書かれていなかったので苦労した。
少しひっくり返せば特定は割と容易にできた。

ただ、かなり狭い路地になっている。まるで人が来るのを拒んでいるかのように。
そこで、あまりにも通りにくいようなとこであれば、それまでの事として、訪問を諦めようと思っていた。

ところが、実際に行ってみるとこちらの現場ですよとばかりに道が開けていた。
一応、その現場の公開は、差し支えもあると思うので控えておく。

そのかわり、「新馬町」の語源となった馬検場の跡地である、畜産会館で決死することとしたい。

江戸時代、馬の検査は先程の杜陵小学校にも近い清水町で行っていたのだと言う。
それでかつては、その清水町を「馬町」と呼んでいたのだと言う。
その馬検査場が移転になったのは、明治45年のこと。

さて、まだ時間があるので、歩いて盛岡駅に戻ることとしたい。
その途中には、大通りがあるので、被害者の勤務先であった日活グリルがあった所に行ってみたい。

かつては盛岡市内には各社の映画館があり、日活も直営の映画館があった。
その2階が「日活グリル」だったのだ。

事件発生当時なら、石原裕次郎主演の「陽のあたる坂道」公開当初であっただろうか。

八幡宮の通りを出るとバスセンターに出る。

そこから中の橋を渡ってかつての県立図書館や桜山神社の前を通り東大通へ行き、大通りへ。
そこからしばらく行くと、映画館通りとなる。

日活ゴールデンビルは映画館もグリルもやってはいないが、飲食店が数件入っている。

その後、図書館が開くまでしばらくガストでブログつけでもしていることにしたい。

いい時間になったので、図書館へ向かうことにしたい。
岩手県立図書館は、中の橋から盛岡駅の裏の「アイーナ」と言う複合施設に移転している。

東口方面からは、現在は駅ビル「フェザン」の地下から自由通路がある。

そして図書館へ行き、マイクロフィルムを次々と渉猟する。

とりあえず13時50分の新幹線までにどれだけの量の新聞を処理できるかの勝負である。

一つの出来事毎にどんどんコピーしていく。
ところで1枚につき30円とは少し高くないか?

それでコピー代に3000円以上使ったので、つまりは100枚以上コピーしたことになる。

いよいよタイムリミットが近づいてきたので、精算して帰途に就くことにする。
もはや昼食を食べる時間もない。

仕方がないので福田パンのあんバターを食べることに。

盛岡からは、新幹線の「はやぶさ14号」で東京を目指すことに。
ハン検に向けた勉強とか色々やりたかったが、福田パンを食べたことでウトウトしてたら既に東北を過ぎて関東まできてしまっていた。

結局、あえなく東京に到着することに。

そして직맹の事務室まで行って岩手県立図書館でコピーした資料をスキャンして画像化し、Googleフォトに入れる。

外はすっかり暗くなってしまった。
さて、またぽわんちゃんの店に行こう。

あと、嵐山の決死をもってハ群まで消尽したので、明日はまずイロハシャッフルから。

ともあれ、新宿3丁目へ行き、ぽわんちゃんの店に行くと、自分一人だった。
さっきまで先客がいたらしい。
それならそれでとまったり飲む。

そのうち、歌舞伎町の付き合いの人が飲みに来た。
そんな感じで福田パンサンドをお土産に色々と。

💩な人っていますよねとか。

あとはまた代々木上原経由で帰途に就く。

ところで、自転車の鍵をどこかに無くしたような気がしていたが、もしかしたらと思って駅の自転車置き場に行ってみると、案の定鍵が刺さったままになっていた。
盗む価値すら無くなったらしい…

まあ何事も無くて良かったけど。

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