ここ数日来の豪雨で、九州の方では特別警報が出たりしており「命を守る行動してください」などと言う表現で警戒を呼びかけている。
中には、「命を守る行動」と言って、退職届を書きだす人もいる。
やっぱりブラック労働で喘いでいる人がいるのだ。
自分にも、そんなブラック労働に喘いでいた時期があった。
かれこれもう10年以上前のこと、まだ自分も20代だった。
本社の近くの施設でのんびり働いていた自分が、どういうわけか本社の経営企画部門に入れられてしまったのだ。
確かにそれは、エリートコースと言える場所だったかもしれない。
しかし、技術開発部門として今思えば変なプライドがあり、そんな経営企画部門に入れられると言う事は、「技術者失格」の烙印を押されたようにすら感じたのだった。
そしてまた、終電を逃してタクシーで帰るレベルの長時間労働。
「良い関係が成り立っていれば、パワハラも許される」と言うような体育会系な風土もあり、次第に心を病んでいった。
あの頃にしてみれば、たわいもないことなのであるが、こちらの趣味に関して1つ印象的なことがあった。
伝説のフェチSNS「MOON BASE」で、21時からチャット大会をすると言うのである。
しかし、21時と言う時間は、仕事をしている時間。
当然参加できるはずはない。
こんなブラックな部署にいる自分の身を呪ったものであった。
結局、その後も病院代だけ嵩み、年明け前に泣きながら「もう出して下さい」と訴えてお役御免になったのだった。
これもまた思い出供養に、あの頃を偲んでみたいと思う。
そんな今日は、スマホの大きい音で目が覚めた。
何事かと思ったら「土砂災害警戒情報」であると言う。
土砂災害と言う事は、崖崩れとかそういうことだろうか。
避難所は小金、小金原、馬橋、八ケ崎と、松戸市でも北西側が多いような気がする。
というか、自転車で行った時に坂を下るところばかりだ。
つまり、北総台地の下側にあたるところばかりである。
なるほど、数年前の広島の豪雨災害でもそういった崖下にある住宅地が被害を受けていた記憶がある。
当時は、崖や危険地帯にかかわる地名を吉祥地名にしてしまったために、そのような危険性に気づくことがなかった・・・みたいな論議がなされていたと思う。
6時半現在、体温は35.5℃、血中酸素濃度は98%。
また、窓を少し開けているとずっと肌寒いほどであるが、気象庁のホームページで気温を見てみると、船橋は19.3℃であると言う。
そりゃ寒いわけだ。
さて、行動開始することにしよう。
そして新京成線の中の人となる。
予定より1本遅い電車に乗ることとなった。
それでなくても1本遅いのに、今度は朝食も食べたい。
ということで、松戸駅に到着したら少し雨が強くなっていたが、駅東口の吉牛で朝食。
松戸発の快速は8:40ということになった。
この電車が上野に到着するのは8:59。
国立科学博物館の入館予約は9:00~9:20としていたので、丁度いいくらいの時間である。
車内はどうにか座ることができた。
ただしソーシャルディスタンスは守れない程度。
吉牛で唐辛子を入れたせいか、こういう時に限って咳が出てくる。
隣の方、すみませんね・・・
今回出る出口はいつもの広小路口ではなく上野公園口となる。
つまり階段を上った方。
駅前に出てみると、常磐線から降りた客で一時的に密のように見えたが、すぐに疎らになってしまった。
まるで田舎の駅のように。
いつもであればもっと密なのであろうが、大雨が降ってるのとコロナとで、かなり疎らな状態である。
国立西洋美術館は、「世界遺産の価値を高めるための工事」を行っているのだそうで、2022まで休館するのだという。
さて、国立科学博物館に向かっていきましょう。
「国立科学博物館」なんていうくらいなので、もう少し未来的な宇宙的な面持ちの建物かと思ったらさにあらで、なかなか重厚な近代建築である。
この建物は関東大震災後の昭和6年に建てられたという、いわゆる「震災復興建築」である。
この建築は「ネオ・ルネサンス様式」というのだそうで、現在は重要文化財に指定されているという。
そして、車寄せにはご丁寧にも篆書体で「国立科学博物館」とレリーフが掲げられている。
なにぶんにも夏休み期間なので、中学生ぐらいの団体が10人程度来ている。
さて、自分も入ってみることにしましょう。
入場料は630円。
PayPayでも支払いはできる。
まず入ったところは、このネオ・ルネサンス様式の「日本館」。
ここは、日本の地質や生態学などの展示がしてある。
まあ確かにこれも「科学」の範疇ではある。
右でも左でもない普通の日本人が直感的に想起するところの科学(技術)は、この日本館の奥の「地球館」という、いわば新館的な所にあった。
先述の「ブラックな職場」を偲ぶ上で、ここを見たかったのだ。
保存されているものを見ているとだんだん思い出してきた。
「ロール・ピッチ・ヨー」とかそうした述語が次から次へと出てきた。
それも、国際的なつながりも多かったので、いきなり英訳しろとかそんなのまであった。
考えてみれば、あの頃の自分は「理系」「技術者」として未熟であるにもかかわらず、一端にプライドだけは高かった。
それで、本社のエリート部門とはいえ事務作業には耐えられなかったのだ。
科学技術の発展にしても、それは予算が必要であり、しかるべきところに許可が必要であり、部品のメーカー同士の調整も必要であるはずだ。
そんな下支えを軽視していては、いい仕事ができようはずがない。
「人生で唯一自殺を考えるほど」の苦役は、ひとえに自分自身の未熟さ以外の何者でもなかったのだ。
あの頃は本当にいろいろな人に迷惑を掛けた。
それこそ、メンタリストDaiGo並みに謝罪しなければならないところはいくらでもある。
ただ、それもこれも自分自身の成長の糧としていくしかない。
そんな「私的devotee史」。