清岡卓行は『手の変幻』の中で曰く、
ミロのヴィーナスを眺めながら、彼女がこんなにも魅惑的であるためには、両腕を失っていなければならなかったのだと、僕は、ふと不思議な思いにとらわれたことがある。つまり、そこには、美術作品の運命という、制作者のあずかり知らぬ何物かも、微妙な協力をしているように思われてならなかったのである。
パロス産の大理石でできている彼女は、十九世紀の初めごろ、メロス島でそこの農民により、思いがけなく発掘され、フランス人に買い取られて、パリのルーブル美術館に運ばれたと言われている。そのとき彼女は、その両腕を、故郷であるギリシアの海か陸のどこか、いわば生臭い秘密の場所にうまく忘れてきたのであった。いや、もっと的確に言うならば、彼女はその両腕を、自分の美しさのために、無意識的に隠してきたのであった。よりよく国境を渡ってゆくために、そしてまた、よりよく時代を超えてゆくために。このことは、僕に、特殊から普遍への巧まざる跳躍であるようにも思われるし、また、部分的な具象の放棄による、ある全体性への偶然の肉薄であるようにも思われる。
僕はここで、逆説を弄しようとしているのではない。これは、僕の実感なのだ。ミロのビーナスは、言うまでもなく、高雅と豊満の驚くべき合致を示しているところの、いわば美というものの一つの典型であり、その顔にしろ、その胸から腹にかけてのうねりにしろ、あるいはその背中の広がりにしろ、どこを見つめていても、ほとんど飽きさせることのない均整の魔が、そこにはたたえられている。しかも、それらに比較して、ふと気づくならば、失われた両腕は、あるとらえがたい神秘的な雰囲気、いわば生命の多様な可能性の夢を、深々とたたえているのである。つまり、そこでは、大理石でできた二本の美しい腕が失われた代わりに、存在すべき無数の美しい腕への暗示という、不思議に心象的な表現が、思いがけなくもたらされたのである。それは、たしかに、半ばは偶然の生み出したものであろうが、なんという微妙な全体性への羽ばたきであることだろうか。その雰囲気に、一度でも引きずり込まれたことがある人間は、そこに具体的な二本の腕が復活することを、ひそかに恐れるにちがいない。たとえ、それがどんなにみごとな二本の腕であるとしても。
・・・いやしかし、良いこと言いますね!!!
そうなんですミロのヴィーナスは腕がないから美しいんです!!!!
つーことで、ミロのヴィーナスのように両腕のないトルソ像を、草の根分けて探して歩くというページです。
エーゲ海に捧ぐ(木内克)
けっこう色々なところにあるようです。
旭川空港とか岩手県盛岡市の川徳百貨店とか・・・
その中で、今回写真を撮ったのは、姫路にある姫路市立美術館にあるものを撮ってきました。
美術館の前庭の中で、最も重要な位置にこの像があるあたり、「両腕のないトルソ像には普遍的な美が宿っている」と考え・・・るのは私ぐらいのものなのでしょうか?
ちなみに旭川空港でもありました。
(スクール水着で乗りつぶしオロロンライン(3日目)(2017.6.19)より)
トルソー(佐藤忠良)
熊本県は果てしなく鹿児島県境に近い、津奈木町の「つなぎ美術館」の正面入り口前にあるブロンズ像です。
で、ここでやはり大切なのは「正面玄関前の重要なポジションに陣取っている」ということです。
やっぱり、両腕のないトルソ像には普遍的な美が宿っているんですよ(迫真)。
ネット上で見つけたもの