昭和8年、朝鮮京城の猟奇事件

日韓関係は慰安婦像を合法化するところまで。(というかこれまで非合法だったの?)

このおかげで韓国行きの航空券が安くなっているという事情があるとはいえ、手放しで喜んでいいものかどうか・・・
早い所落とし所を見つけてもらわないと、いよいよ日韓断交して開戦なんてことも始まりかねない。あ、でも憲法9条があるうちは「国際問題の解決を武力によらない」から大丈夫か。

さて、今日は韓国で「事件現場を歩く」やってみようか。

挑戦で発行されていた週刊誌のような体裁の「国民新報」の昭和14年10月22日の号では、昭和8年に京城で発生した「生首事件」の捜査の経緯について犯罪実話の形式で報じている。

というか、こんな古い雑誌をネットですぐにダウンロードできるというあたりが韓国は進んでいる。日本も見習ってはどうかと思うのだがどうだろう?

さて、事件の経緯は以下の通りとなる。

昭和8年5月16日のこと。
京城電車の麻浦行き電車の電車道から200mほど入った竹添町で。朝鮮人女性が「哀号!」と泣きわめいている。何事かと思ったら血の付いた生首。
驚いて西大門警察署に届け出た。

警察で調べると「朝鮮紙」と「朝鮮婦人用のチマ」の切れ端に包まれていたことが分かった。
京城帝大の鑑定によれば、生後1年半の赤ちゃんで性別は不明、死後20時間以内で、鋭利な刃物で切られたものだろう、という結果だった。

また、現場には血痕が鉄道線路のあたりまで落ちていたのだと言う。
鉄道線路とは、現在で言う京義線のソウル駅~新村間であろう。

「このような事件は朝鮮では初めて」ということであったが、「梅毒や癩病といった悪性の病気にかかったものが迷信的に行った」という見立てはしていたようである。
日本でも、朝鮮人による「肝取り事件」は発生していた。

捜査の進展に伴い、「朝鮮の風習で、死者の埋葬の時は死体を紙やチマで包む」ということが分かった。つまり一度埋葬されたものを掘り返した。ということらしい。

また、生首についていた土は南山~南大門~金華山特有の土であることが報告された。

現地近くで聞き込みをしていた刑事からは、某の家で、2歳になる娘が死んで埋葬した旨の報告を得た。
12歳になる姉は、写真を「自分の妹に間違いない」と言っているという。
その埋葬を行った隣家の배某を同道して、その墓に案内してもらうことにした。
そうした所、「死体に首あり」との結果。

ところが、親戚の話を聞くなどして話を総合してみると、どうも埋葬場所が違うようだ。
その点を埋葬者である배某に聞いてみると「暗いから間違ったかもしれない。本当はこちらの方だ」と白状した。

その墓を掘り返してみると、赤ん坊の死体には首がないではないか!

苦心2か月、ここで捜査陣に凱歌が上がった。
結局どういうことだったかと言うと、배某の知人である朝鮮飴屋の윤某が、子供の病気を治すために、死体の首を1円50銭で渡したのだという。

ちょっとダークツーリズムに行ってみますか・・・

元々、突然思い付いて来た、あても何もない旅である。
朝遅く出発し、適当に鐘路をそぞろ歩く。

光化門前の世宗大王の像の前には、測雨器や天球儀などが、韓国起源であるとばかりに並べられている。
この向こうには光化門や青瓦台がある。
決死モデル:チームPメイ

ちょっと朝食でもするか・・・ と思って適当な所を探すが、意外に丁度いいチゲが食べれるというような所はない。タッカルビなどの店が多い。
やっと、水餃子マンドゥックを食べることができる店に行き当たった。

さて、腹もいっぱいになったので今度は日本大使館に行ってみますか・・・

日本大使館の道路を挟んだ向かいには、慰安婦の銅像が置いてある。

警察官が見張ってはいるが撮影に対し文句を言われるようなことはない。
また、像の隣では太極旗とスピーカーを構えた女性がいるが、横断幕を見る限りではどうやらキリスト教関係の人らしかった。

自分自身が慰安婦に対してどう思うかと言うと・・・
どの戦争でもあったように、第二次世界大戦の日本でも、戦時性暴力はあったのだろう。
ウヨ共は、そこに強制性があったかどうかを問題にしているが、「強制ではなくても断れない状況」なんていくらでもある。
だからと言って、では際限なく日本国民の血税から賠償をするべきなのか? と言われるとそこは考え込んでしまうが・・・

さて、ではかつてソウル市電が走っていたであろう西大門の通りを歩いていくことにしましょう。

ソウル市歴史博物館の前には、京城市電の381号車が保存してある。
決死モデル:チームR園田

屋根のない野外保存であるが、保存状態は非常に良い。
また、車内に入ることもでき、廃止されたころの広告がそのまま残っており、朴正煕時代の庶民の生活を垣間見ることができる。

ところで、この保存車両を見た人たちの間では有名だが、何やら電車に手を振っている像がある。
これは一つの芸術作品で、「電車と遅刻生」というのだという。

電車で学校へ行く学生に母親が「あんた、弁当は持ったのかい?」、妹が「オッパ、帽子も忘れてるよ」と言っているユーモアの効いた像である。

あとは、地下鉄4号線の恵化駅近くの国立ソウル科学館にももう1両保存されているのだと言う。こちらにも行ってみたいところ。

さて、事件現場目指してなおも西大門の通りを西進していきましょう・・・
ところで、事件を届け出た西大門警察署は現在は韓国の「警察博物館」となっている。ここの事件に関する資料も残っているのだろうか。
また、その警察博物館から西大門の交差点を挟んで点対称に大韓民国警察庁がある。

それにしても最近のソウルは、超高層ビルが立ち並んでまるでアジア離れした感じになっている。という過去のような感じこそが最近のアジアなのか。

さて、問題の竹添町であるが、例の血痕のあった通りに入ってみると・・・
最近の韓国のビルラッシュから取り残されたような家並みが並ぶ。ソウルにもこんな街並みが残っていたのかと驚くほどであった。
決死モデルチームPウメコ

それとも何か人権的な事情でもあって・・・? とも思ったが、考えてみればソウルは朝鮮戦争で一度跡形もなく破壊されつくしているのである。
韓国におけるその手の問題を考える時、「朝鮮戦争で破壊されつくした」ということは一定の影響があるのだという。

 

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