横浜市が財政破綻しようがカジノには反対!代案は無いけどとにかく反対!海外のIR企業に「日本は面倒臭い国で魅力的な投資先では無い」ということを知らしめて安倍政権の経済政策を市民の力でメチャクチャにしましょう!

「カジノは白紙」で横浜市長に当選したはずの女性市長が、ここへきてカジノ誘致を持ち出してリコール騒ぎになっている。

カジノ誘致の理由として市長は「横浜市の財政難」を挙げている。

しかしそんなのは表向きの理由に過ぎず、実のところは菅官房長官が米企業の後押しでカジノを進めており、その圧力から誘致に乗り出したのではないかとみられている。

そこへ財政難に悩む横浜市が手を挙げたわけで、おそらく安倍支持系の保守派からは「(横浜市への財政に対する)代案を出せよ!」という声が上がるかもしれない。
しかし代案は「カジノを作らない」以外にはない。
そもそもがギャンブルで町おこしなど、堅気のやることではない。それは韓国の山奥・江原道に建設したカジノの例をとっても明らかである。
カジノの周囲には質屋が立ち並び、ホームレスが増えているというではないか。

そのような訳で、海外企業からの投資がどれだけ増えて、雇用がどのくらい増えるかは分からないが、とにかくカジノには大反対である。

そもそもカジノ法案の基本理念は、「地域の創意工夫及び民間の活力を生かした国際競争力の高い魅力ある滞在型観光を実現し、地域経済の振興に寄与するとともに、適切な国の監視及び管理の下で運営される健全なカジノ施設の収益が社会に還元される」(特定複合観光施設区域の整備の推進に関する法律(H28.12.26法律第115号)第3条)ことであるというが、その趣旨を果たしたいのであれば、いっそ北海道の夕張あたりにでも作ればどうだろうか。
夕張であれば土地や建物はいくらでもあり、人手はどんなギャンブル狂でも欲しいであろう。
とにかく観光資源が充分ある横浜にカジノなど一切要らない施設である。

それほど横浜市が財政難というのであれば、まず市長のボディーガードは税金の無駄であるから無くすべき・・・
と思って、実際現在の市長はボディーガードを付けているのかどうか調べてみたら、神奈川新聞の記事にあった。

何と、ボディーガードは付けていないようである。その意気や良し!!!
(ただし10年前の話なので、今も付けていないかどうかは不明)
この状態で大いに市民の前に立ち、学徒出陣に赴いた学生のように「元より生還を期せず」の覚悟で説明責任を果たすべきであると思う。

ということで、実際に現地に行ってみたいと思う。

松戸から常磐線に乗り、上野からは上野東京ラインに乗り換えて横浜を目指す。

先日事故が発生した現場の近くである東神奈川を抜けると、京急の線路が並走することになる。
こちらのE231系の15両編成が重々しく横浜駅へ進入しようとすると、左後ろから京急車両が軽快に追いついてきて軽やかな加減速で横浜駅に滑り込む。
事故があってもなお京急の「走り」は健在で、走りをきわめた京急が健在であることを印象付けた。

そして横浜からはみなとみらい線に乗る。
みなとみらい線つまり横浜高速鉄道は、神戸高速鉄道同様の車輛を持たない第3種鉄道事業者(トンネル会社)のような印象を受けるが、実はY500系という同社独自の車両は持っており、東急5000系(とは言っても青ガエルではない)と同じ設計になっている。
なので、横浜高速鉄道はれっきとした第1種鉄道事業者である。

とは言っても、運行は完全に東急東横線と一体になっており、所属する車両基地も東急の元住吉検車区になっている。
そのY500系が元町・中華街駅に停まっていた。
決死モデル:チームWBノノナナ

現地カジノリゾート予定地は横浜港の倉庫街のただ中にある。
みなとみらい線の元町・中華街駅から近い所にあり、向こうには氷川丸も見える。

カジノの誘致に当たっては、「横浜のドン」と言われた横浜港運協会の会長が反対を表明した。
港湾労働者と言えば、現在はいろいろ分裂したりはしているが、山口組だって沖仲士の集まりが成立の濫觴である。
この横浜の港運協会だって、もしかして堅気ではない・・・?
と、Wikipediaを調べてみると、早稲田大学政経学部を出ているというが、家系としては任侠集団と全く関係がないわけではないようである。

向こうには氷川丸も見えるので、ちょっと行ってみようか。

山下公園の埠頭に係留されている氷川丸は昭和5年に建造され、戦争中は病院戦に改造されるなど色々あったが、昭和28~35年には北米航路で活躍し、フルブライト留学生も運んだ日本の戦後史や国際交流史の中では象徴的な船となっている。
決死モデル:チームTフジアキ

現在は、国の重要文化財となり博物館的に一般の観覧に供されている。
それではちょっと行ってみますか・・・

入場料は300円で、一方通行の順路に沿って見るようになっている。
順路は上の階から順番になっており、つまり1等の船室から見るようになっている。

そして1等食堂へ。
・・・の前に、1等食堂の入り口の前には「1等児童室」がある。
説明員の方によれば「1等食堂で食事が始まると1~2時間は使うことになる。その間子供が退屈するので、託児室を別に設けていたのだ」という。
まあそりゃそうだよな・・・ 上級国民のためにはそこまで配慮されていたのだ。

そして1等食堂はと言えば、ナイフとフォークを使った洋食であり、さぞや上流階級の社交場であったろうことが推測されるほどのものだった。
銀のトレイの上には肉や果物(の蝋細工)が載っている。当時の栄華が感じられた。
とはいえ、特に戦後であればアメリカに用務があると言えばノースウェスト航空やパンアメリカン航空でひとっ飛びであっただろう。
特に1等船室というのはどういう客層が使ったのであろうか。運賃の比較などがあればよかったのだが・・・

その次は読書室。
ちょっとした書棚があり、羊皮紙の英語の本があり、教養人のパスタイムの場であっただろうが、揺れる船の中でどれだけ読書ができたのかは分からない。

そして次が社交室となる。
社交室には暖炉がありピアノがあり、くつろげる椅子とテーブルが置いてある。
喫煙室とは別に設けられたものであるといい、1等の女性客向けに設置されたものであるということだった。

その入り口の前には「1ST CLASS PASSENGER ONLY 三等船客は御遠慮ください」と書いてある。
欧米において列車の一等車とは「一般庶民のいない空間を買う」ものだと言われている。
それを感じさせるにふさわしい高雅な雰囲気があった。

そして次は通路で氷川丸の歴史に関するパネル展示となっている。
初代船長であった秋吉七郎について、そして昭和5年の就航当時の時刻表や運賃など。

また、シアトルに到着した後はグレート・ノーザン鉄道と連絡するようになっていたといい、シカゴ行きの「エンパイア・ビルダー」の塗り分けが、日本の湘南電車の塗り分けになったとも言われている。

ちなみに「エンパイア・ビルダー」は旅客輸送がアムトラックに統合された現在でも同じ区間で走っている。

そして次は一等客室。
広々とした2人部屋にはベッドの他、テーブルと椅子、洗面所とクローゼットが備え付けてあった。
ただやっぱり、飛行機に比べてどのくらいの価格競争力があり、どのような層がこの一等客室を利用したのか、ということについては興味深い所である。
その価格競争力を1960年の時点で失ったために、氷川丸は北米航路から撤退したのであろうし・・・

そして船長室や機関室にも行ってみることとしたい。

船長室は前方を見渡すことのできる高い階にある。
操舵室とは伝声管でつながっており、寝室や浴室も近接したところにある。
それだけ、船に対する全責任がこの船長にかかっていたというべきであろう。
・・・ところで、寝室に入ることができないがゴキブリホイホイが置いてある。ああ、出るのね・・・

そのまた上に操舵室がある。
ここには通信設備など諸々の機械が備え付けてあり、モールス信号も打つことができる。

さて、甲板に出てみると、さっきの横浜港のカジノリゾート予定地を見渡すことができる。
非常に多くの市民の反対の中、女性市長はどれだけ命を張ってカジノリゾートの建設を進めることができるか、と言うところであろう。

ところで、灯台は明治29年に竣工した「白灯台」であり、昭和38年まで東突堤で現役の灯台として使用されていたものであるという。
また、この甲板の部分は客室側からもオープンデッキとなっており、救命ボートも備え付けられてある。
救命ボートは乗員乗客全てを救えるだけのキャパシティはあったのだろうか。

そしてあとは下に降りるだけ。
氷川丸は上から「Aデッキ」「Bデッキ」「Cデッキ」となっており、一番下のCデッキが三等客室となっていた。

三等客室は2段ベッドの8人部屋となっており、主に留学生が使用したものであるという。
とはいえ、海外旅行が自由ではなかった時代、三等客室に乗ってアメリカへ行こうという客は、それなりの社会階層ではなかっただろうか。

説明文によれば、三等での船旅は、司厨員のジャガイモの皮むきを手伝ったり、逆に果物をもらったりなど、アットホームなものであったという。
また、食堂の食事も煮魚など庶民的なメニューが多かったという。
日本が発展途上国であった頃にふさわしいケンチャナヨな雰囲気が感じられた。

さて、とりあえず氷川丸も見たので次へ行くことにしましょう。

山下公園の向こうには、ホテルニューグランドが聳え立っている。
ホテルニューグランドは、関東大震災の後、「外人ホテル」として建設されたものであり、官民一体として計画が進められた現在の「第三セクター」の走りであるという。
決死モデル:チームP桃園

ちなみに、現在の印象的な建物は「旧館」と呼ばれており、1991年には18階建ての新館がその右後ろに聳え立っている。

そして、夕食はいちょう団地でベトナム料理でも食べるべく、地下鉄の関内まで歩いていくことにしたい。
中華街も今日はスルーである。

そして横浜公園が見えてきた。
今日はベイスターズの試合らしい。
観戦客が来ているユニフォームを見る限りでは、どうやら今日はヤクルト戦のようである。
決死モデル:チームYジャスミン

スタジアムの前にはいろいろな屋台が建っている。
男性客が多いせいか、唐揚げや牛串やケバブと言った肉系の屋台が多い。

それでも、ベイスターズのファンは他球団に比べ女性客が多い気がする。
阪神や広島なんかのファンの客層に比べたら、お上品であることは確かだろう。

そして特徴的だったのは、小学生ぐらいの女の子のチアガールがやたら大人数待機しているということである。
各球団はチアリーディングチームを抱えているがベイスターズも同じで、子供向けにチアリーディング教室を開いているようであった。

見てみると「南林間校水曜セカンドクラス~~」だの「瀬谷校木曜サードクラス~~」みたいに整列をさせている。
横浜を中心に、各地に展開しており、一つの「習い事」として確立しているようであった。

千葉ロッテの「M splash」も同じようにチアリーディング教室を展開してるのだろうか。幕張校だの稲毛校だの土気校だの・・・

さて、ハマスタの前には横浜市役所がある。

横浜市役所と言えば例の女性市長が書類をアイキャンフラーイした所。
一度覗いてみようと思ったが、あいにく土曜日なので入ることはできなかった。

さて、では関内から地下鉄に乗って立場へ行き、そこからバスでいちょう団地へ・・・ と思ったが、あいにく気力が持たない。
仕方が無いので帰途に就くことにする。

つくづく体力と気力が落ちたものよ・・・

 

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